それが行き着いた形が、ウラジーミル・プーチン氏である。
非道な行いに対して、強い言葉で返すのは、本当は、簡単なことだ。しかし、それはそれ以降の行動の選択肢を狭めることになる。
そんなことは、私たちは、日常生活の中で学んでいるはずだ。個人であれば、多少理不尽なことがあっても、そうそう軽率には粗暴な振る舞いで返すことはないだろう。
それは国家間のことであっても同じことなのだ。
にも関わらず、私たちは集団の指導者には強いイメージを求めがちだ。
勿論、強い言葉が効果的なこともある。しかし、それは賭けのようなものだ。失敗した時のリスクが高い。
不必要に挑発的な言動は、国内の賞賛は受けるかもしれないが、外交における損害は大きい。
強い指導力で成功した例では、ウィンストン・チャーチルが有名だ。
チェンバレンがナチスドイツに対してとった融和政策を大きく転換して、イギリスに勝利をもたらした。
しかし、プーチンも習近平もアドルフ・ヒトラーではない。二人とも何も世界を征服しようとしているわけではない。もしかしたら、そういう子供じみた欲望はあるのかもしれないが、少なくとも自分たちに限界があることは知っている。
民族浄化という意味でも似たことをしているが、ヒトラーがヨーロッパの暗部に引きずられた狂った思想からそうしたのに対して、プーチンや習近平は効率的に国家を統治するためにやっている。勿論、だからといって許されるべきものではないが、動機も目的も全く違うものだ。
だから、今、日本に、無意味に挑発的な言動をとる、強い言葉を持ち味にする指導者を誕生させてはならないのだ。
《これは、憲法第9条改正や日米安保強化や有事に備える、といった行為とは全く別の話だ。それらは粛々と進めればいい》