恥ずかしながら、私は結構気の短い性格だ。
さらに恥ずかしいことに割合にそれを表にだしてしまうほうでもある。
当然ながら、その結果として周りと上手く付き合えないということも多々ある。
そんな私であるが、最近、おそらく人生で初めて人に期待するのをやめる、という感覚を持った。
何をどうしても、言えばいうだけ悪い方向に進んでしまう人、というものが存在することに(やっと)気付いたのである。
いや、勿論こちらが至らない点も多々あろう。しかしそうだとしても、というよりも、そうだからこそ尚更こっちにはどうしようも出来ないのだ。
そうすると具体的に相手に対する態度がどうなるのかというと、相手にしない、ということになろう。
つまりは人間としては認めないことになる。犬猫か虫かもしくは自然災害に対する気持ちで接することになる。
そうなると、表面上は優しくなることになろう。犬猫や虫や自然現象に本気で怒っても仕方がないのだから。
これは世間で良く言う、“他人に期待しない”とか“他人は変わらないから自分が変わらなければならない”などということとは少し違う気がする。そういう教えでは、相手のことを個人として尊重しているのだろう。尊重しているからこそ相手に変わることを望まないのだとも言える。
私の場合は、人として見ない、ということなのだから。
今までは、日頃何らかの手助けをすることは勿論、相手が何か大きな苦境に落ちたときには多少は自分に不利なことであっても、仲間として協力する心構えくらいはあったはずだった。しかしこれからは日頃親切にすることはあっても、相手の重大な苦境には、それが面倒なことであれば知らない顔をするだろう。
また、そういう感情は、一度身に付けると他の、特に迷惑をかけられているわけでもない人たちにも当てはめてしまいそうな気がする。
おそらくこれは老化なのだろうと思う。他人に注げる力が少なくなっているのだろう。見方によれば成長とか成熟に見えるのだろうし、もしかしたら周りからの評判は良くなるかもしれない。
しかし、実態は人生から一つ“降りた”ということなのだろう。死への準備がひとつ整ったということなのだろう。
ここからは余談になる。
思えばこういう考え方があるということを初めて知ったのは「恋も二度目なら」というドラマの台詞からだった。
明石家さんま演じる主人公は性格もいい加減で誠意もなく、またすぐに感情的になる男である。しかし彼がいわいる遊びで付き合った、羽野晶紀演じる女性はそんな男が大好きなのだ。それで何度振られてもつきまとうことになる。(その都度明石家はその場の欲求に負けて寝てしまうことになる)
その理由を聞かれて羽野晶紀は、彼はいつも相手にちゃんと向きあっている誠実な男だから、という。それがたとえ無下にしている時でも、怒っている時でも、常に真剣なのだという。片手間ではないのだ。
それに対して、ドラマの中で、社会には評価も高く、出世もするような人たちの中には、他人を自分のための道具くらいにしか思っていないような者もいるということを描く。そういう人たちは、表面上は誠実であり、良さげな人に見えても実は自分の利益のことしか考えていない人たちなのだと訴えているかのようだ。(その役割を佐藤浩市演じる明石家の年下の上司が担っている)
ちなみに脚本は「相棒」で有名な輿水泰弘氏であった。
“他人に無関心な人”というものを感じたのはタモリに対してである。
「笑っていいとも」の最終回で出演者それぞれがタモリとの逸話を述べていく場面があった。草彅剛と香取慎吾が披露したのが、まだ若くて責任というものが良くわかっていなかった時に番組に大幅に遅刻してしまった時のことだった。多くのスタッフからひどく叱責されたのだが、タモリだけは笑って怒らないでいてくれたのだという。
彼らは勿論それをタモリの優しさとして話していたのだが、私にはそれは他人への無関心の故だと思えた。私にはその時、タモリも自分の意図とは全く違う解釈をされて困っているようにも見えた。本来、草彅、香取両名は本気で怒ってくれたスタッフたちに感謝すべきだったのである。(まあ、テレビなので、彼らも知ってて演じていたのかもしれないが)