時事その他についての考察

それなりの気付きを作品中にさらっと入れてしまう。一流というのは凄いものです。

『それは(大方の対立する見解がそうであるように)ふたつの違った名前で呼ばれる同一の料理のようなものである。』村上春樹の小説、「羊をめぐる冒険」の一節だそうだ。

私も常々マスコミなどで「両者の主張は完全に対立している」などと言われている事例を読むと、単純にそれぞれが、自分に有利になる部分だけが全体であると思い込んでいる場合がほとんどであると思ってはいた。

そうして大体において、それは自分を優位にするために計算してやっているわけではなく、全体が視えないために起きていることだと考えていた。

ただ、当事者同士がそういう思考の罠に嵌まってしまうのは仕方がないが、それを記事にしている人が客観的に視ることができないのは困ったことだと考えていた。

しかし、もしも私がそのことを何かの形で文章にするならば、正に今書いたようにそれを長々と書くだろう。

ところが村上春樹はそれをわずがに三行でさらりと書いてしまう。

おそらくは、小説世界の中にそのような評論じみた文章を入れると作品世界が狂ってしまう、しかし自らの見解は入れたいということでそういう簡潔な表現になるのだろう。?

そういう情報量が、良くいわれる作品の厚みを増すということにつながるのだろう。

つまりは情報量を詰め込むことになるのと同時に、読む者に「これだけの情報を軽く出せるということは、この作者はもっと凄いことを知っているに違いない」と思わせることも出来る。

それがハッタリとなって、読者が想像のなかで作者や作品の価値を勝手に高くすることにもつながる。

これは村上春樹に限ったことでは勿論ない。私の知っているところでは、角田光代さんのエッセイにも同じような部分がある。

読んでいると、エッセイなんだからそこをもっと広げればいいのに、などと思うが、それは角田さんのやりたいことではないのだろう。

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