ナチスドイツによる強制収容所での体験を綴った「夜と霧」で有名な心理学者であるヴィクトール・フランクルは常に人生を肯定的にとらえていた。それは、父、母、兄、妻が強制収容所で亡くなっても変わることはなかった。何かを呪詛したり、恨んだりすることもなかった。
それは、どのような理不尽とも言える出来事にも何らかの意味があるはずだから、という認識を持っていたからだ。
フランクルが何を思おうと、何と言おうと、人生に意味など無い。それは川の中を水が流れたり、木に火が付くと燃えて灰、もしくは炭になることに意味が無いのと同じことだ。
人生や人間の生活に意味がある、という考えは自分やヒトという生物を特別視することであり、傲慢なことだ。
※ヒトだけでなく、全ての生物、無機物にも意味があるのだ、という反論は誤魔化しである。それは、ヒトだけを特別視している、という批判を受けて、それをかわすために考えだした小理屈だ※
大体想像がつくと思うのだが、フランクルは宗教を信じていた。両親が敬虔なユダヤ教信者だということなので、おそらくそれはユダヤ教だろう。
さて、フランクルは間違っていたのだが、彼が立派な人物であったことは確かだ。また、間違いなく、この文章を綴っている私よりも立派な人物だ。
ここに神を信じることの意味があるのだろう。
人生に意味などないし、神などは存在しないのだが、神を信じること、宗教を信じることで人は高貴亡存在になり得る。
人生の持つ意味を否定し、かつ、神を信じないものが同じように高貴な者になれるのかは、まだわかっていない。