音楽と踊りは本来一体であり、またそれは一部の特別な才能を持った人たちだけが表現できるものでもなく、我々皆がパフォーマンスすべき、極めて一般的なものである。
それが現代のように特権的なものになってしまっているのは、やはり、西洋音楽の弊害なのではないか。
いわいるクラシック音楽というものの起源は教会音楽であろう。それは、神に捧げるために作られたものであるが故に高尚なものに成り下がってしまった。
※勿論、教会に集まる信者たちを愉しませる、という重要な働きもある。アメリカのゴスペルなどはその発展的なものであると共に音楽を大衆が取り戻す先駆でもあっただろう。
世界中の社会が西洋化され、それに伴って学校教育も西洋風になったなかで、音楽教育というものも作られ、それは西洋音楽を基準とするものになった。その結果として、本来民衆のものであり、一体のものであった音楽と踊りが分断され、また、音楽が特別なものになってしまった。
※学校教育として音楽を教えるのは構わない。しかし、その際に、音楽と踊りは一体として愉しませるなければならない。また、音楽にとって最も重要なことは音階などではなく、リズム、タイム感である。だから、最も重要な楽器は打楽器であり、それは初めにカスタネットを持たせるなど安易に考えるものではなく、音楽に接する時には常に打楽器を携えなければならない位のものである。そうして、音楽教育は、例えば発表会などを目指すべきようなものではなく、いかに日常生活と音楽と踊りを一体化させるか、つまり我々が日常的に楽しめるようにできるためにされるべきものなのだ。
西洋でも、バッハの時代にはまだ教会でコラールを唱和するなど、音楽と日常の接点は深かった。しかし、バッハ以降、それはホールなどでプロの演奏者が演じるのをただただ拝聴するものになってしまった。
※それでも勿論日常にも日本でいう民謡のようなものは残り続けただろう。人が音楽から離れることなどはできないだろうから。しかし、それは真っ当な音楽よりも一段下がるものと考えられてしまっただろう。また、必然として、日本など後に西洋文化を輸入した文化圏では、それまでの固有の大衆的な音楽は西洋人が自分たちの大衆音楽にするよりも更に低俗な扱いを受けただろう。
それでも世界は常に変わり続ける。時代が進み、大衆社会が実現すると、ポピュラー音楽が力をつけるようになった。また、それらが踊りと切り離せないものであったのは当然のことであった。
そうして、更に時代が下るにつれて、ジャズからロックと聴くものと演じるものとの差がどんどんなくなってきた。
また、表現方法としてもピークにいくまでの手続きが簡略化され、音が鳴った瞬間に心を掴ませる方向に進んできた。
それがついにヒップホップの誕生で、誰でもすぐに演者になれるまでになった。(上手い下手はあるけど)また、リズムやタイム感も復権した。一応、これで音楽を大衆が取り戻す動きは一段落したのかもしれない。
後はヒップホップが日常である世代が大人になり、音楽と踊りを溢れる世の中になるのを待つだけなのかもしれない。