仕事はいつから辛いものになったのだろう。
古代社会を思い起こしてみる。
狩猟に農耕、いずれも肉体的には辛い作業だろう。しかし、獲物が捕れたときの喜び、作物を収穫したときの嬉しさは格別だろう。
耐えられない程のことがあるとすれば、それは人間関係くらいのものだろう。
社会が発達して、職人仕事や商売人が生まれてもそこは同じだろう。楽な仕事はないだろうが、上手くいった時の喜びがある。
ただ、前近代社会でも現代社会にあるような、仕事場にいくのが嫌になるような仕事もあった。官僚の仕事である。
減点主義の仕事は精神的にきつい。また、同僚との出世争いや妬み嫉み、上司に対する気遣い、忖度など気苦労は耐えないだろう。
しかし、官僚というものは前近代においては立身出世のために目標とするもので、選ばれたエリートであろう。
それになるのは本人の意志であって、そこで苦労するのも本人が選んだことだとも言えよう。
こういう状況は近現代社会で一変する。
それを一般にも知らしめたのはチャップリンの映画「モダンタイムス」だろう。
工場における単純労働が労働者の精神を蝕む様を描き出した。(のだと聴いている。観たことはない)
1936年にチャップリンがそれを描いてから90年近くになるが、問題が根本的に解決されたわけではない。
対応策としては、労働時間の短縮、休憩時間の充実、空調や心地よい音楽を流すなど、職場環境の改善など、場当たり的な対応しかできていない。
また、現代では官僚仕事と同じ、精神を削られる仕事が主流になっているとも言える。
加えて長時間の拘束、長すぎる通勤時間などでろくに精神を回復させる暇も与えない。すなわち、人間の持つ耐久性をいいことに、社会はその精神を蝕む問題に真剣に取り組むことをしてこなかった。
人間というものは、何かを当たり前だと思ってしまうと、それがいかに異常なことでも改善に本格的に取り組むことはしない。
以上述べた仕事のこともそうだし、交通事故の問題も根本的に解決しようという考えはあまりない。
これが、新型コロナウィルスのように、突然現れたものであれば、これは普通でないので社会をあげて対応することができる。
しかし、徐々に問題が積み重なって、いつの間に大きなことになっているようなことは場当たり的な対応が取られるだけで、何となく放置されてしまう。
だから、本当は、いまだに人権などというものは、ほとんど無いのだ。
※少なくても対人の交通事故を無くすのは理論的には簡単だ。車、自転車、歩行者を完全に隔離すればいい。また、対向車線に侵入することができなくなれば車同士の事故も大きく減るだろう。
通勤ラッシュはあやゆるものが東京などの大都市へ集中しているのを緩和すればいい。一時言われていた地方分権も効果的だろう。多くの企業も、明治時代に行政の処置によって強引に東京に本社を置かされたと聴いている。管理を容易にするためだったのだろうか。そうであれば官僚の縛りを弱めることで地方に移る企業はでてくるだろう。 実現は困難というのは、つまりはやる気が無いということで、人権などいらないということなのだろう。別にそれはそれで構わない※
追記:他人と喜びを分かち合える、というのが大事なのだろう。スポーツ選手が得点した時やプレーの節目ごとに手を合わせ合うのはそういう意味があるのだろう。