時事その他についての考察

映画「グリーンブック」。何故抑制された描写でも人を惹き付けることができるのか

抑制された描写と言っても、勿論動きの派手な場面、感情を爆発させる場面がないわけではない。

しかし、それらは最小限に抑えられていると思う。

それでも、この映画が人々を惹き付けるのは何故か。

それには様々な要因があるだろう。

その中で、あまり言及されない重要な要素に、画面の構図の美しさというのがあるのではないか。

簡単にいうと、その画面を切り取って、静止画にしたとしても、絵として決まる画面が沢山あるということだ。

例えば、演奏旅行をしている出演者たちが新しい会場をたどり着くたびにその建物の外観が写しだされる。いずれも美しい建物であるが、その画面に(無意識にでも)我々が惹き付けられるのは建物そのものの美しさだけではなく、それを写している構図にもある。バランスが完璧なのだ。

(食事の場面が沢山出てくる。我々は本能的に美味しそうな食事の場面には惹き付けられるが)その中でも特にクリスマスディナーの場面は絵として良くできていると思う。

抑制された描写であっても我々が満足してしまうのは、場面ごとのそういう細かい、小さな愉しさが満足感を生むからだと思う。

逆にいうと、それが出来ていないと制作者側も何か足りないような不安な気持ちになってしまうので過剰な描写や演出に頼ってしまうのだろう。

一般的に日本映画が情緒的だといわれてしまうのは、外国の映画が洒落ていると思われがちなのは、そういう所にも原因があるのではないだろうか。必ずしも国民性という話ではなく。

《勿論、「グリーンブック」はアカデミー賞作品の名画であり、ただの凡百な作品ではない。そうでなくとも外国のものがに日本に来ているということは、既にして選ばれているということなのでそれと国内作品を比べるならば、国内でも選ばれたものと比べなければ公平ではないのだが 》

話は変わるのだが、同じくことは役者の演技にもいえるのではないか。

「グリーンブック」もそうなのだが、洋画では役者があまり過剰な演技をしない。

《これも、そもそも他所の国の作品が日本に来ているという点で、既に選ばれているということもあるのだろうが》

振り返って、日本の映像作品を観ると、そもそも過剰さを売りにしている人たちはともかく、名優といわれる人たちでも見ているとやり過ぎじゃないか、という演技をすることが多い。

これは結局、根本的な演技力の違いなのではないか。

自信がないからやり過ぎになってしまう。

外国の映画やドラマを観て、役者の演技の稚拙さを感じたことはあまり無い。一部のアクションスターに感じるくらいだ。

対して、日本の映像作品では、びっくりするくらい稚拙な演技に接することなどは普通のことだ。

また、日本ではよく、存在感がある、とか、役のイメージに合うから、という理由で、演技者としては素人の人たちが抜擢されることがある。

当然、そういう人たちは技術的には稚拙なわけだが、それが責められることはあまりない。

つまり、日本では、未完成であったり、未成熟であることが許されやすいといえる。

さらにいえば、欠点というより、そこに価値があると考えられているようにも思える。

高校野球に異常な人気があったことなどは、そう考えなければ解決できない。

何故そういう現象が起きるのか。一つには、基準を厳しくしてしまうと、それを満たせる人が少なくなってしまい、あるジャンルを動かすことができなくなってしまうためにそうなったのかもしれない。

そういうことではなく、逆に、未成熟を尊ぶ風潮があるから、職業的な人もそこにとどまる人が多くなるのかもしれない。(それでも第一線にいられるのは、別の、なんらかの魅力がある、もしくは身に付けたからだが)

しかし、だからといって、それが西洋に比べて必ずしも劣る、というわけではないように思える。

在りかたの違いに過ぎないのかもしれない。私もどちからというと、外国の役者より日本の役者のほうが好きなのだ。

“可愛い”が至上の価値を持つ文化も日本のそういう特徴に原因があると思う。

(唐突に壮大なことをいうが)それは世界平和の切り札になるのかもしれないのだ。

攻撃性を無力にするのに、可愛さというのはかなり強力な武器なのではないか。

《ちなみに、「グリーンブック」では、攻撃性には『上品さ』、『高貴さ』(dignity)で対抗するべきだと主張されている。それは立派なことだが、対抗するより無力化するほうが有用だと思う。なにより遺恨を残すことがないではないか》

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。