時事その他についての考察

物事の正否は議論で決めるべきだという考え方は危険である。

対立する意見を論理的に擦り合わせて結論を出す、という姿勢はいい。しかしそれを直接的な議論に頼るべきではない。

それを絶対視してしまうと、間違った主張であっても、議論の技術が優れていれば、その主張が通ってしまうことになる。

そんなことは、既に古代ギリシャでプラトンが指摘していることだし、現代でもその弊害が言われることもあるだろう。

では、どうすればいいのだ、と言われれば、大切な議論は、これは直接的な討論ではなく、互いが冷静に主張を組み立てることができる、時間をおいた間接的な討論や、文章でのやり取りで行うべきではないかと思う。

ところが、もし現実にそういった提案をしたならば、それは弱腰あるいは自信のない現れ、ととられてしまうことが多い。

話は少し違うが、ケネディとニクソンが争ったアメリカの大統領選で、ケネディの勝利を決定づけたと言われるテレビでの直接討論がある。

この時、ニクソンは顔色が悪く、テレビの画面上では自信が無いように映ってしまっていたらしい。

結局、両者の政策の可否や、議論の精緻さなどではなく、その時の印象がケネディの勝利を決決定づけた、と言われている。

最近の民主国家は、どこの国も見栄えのいい首相や大統領ばかりだ。

本来、政治家としての能力と外見の良し悪しにはほとんど関係がない。

関係がないのにも関わらず、現実に見栄えのいい人たちが選挙で選ばれがちだということは、彼らは実力を外見で補っている可能性が高い。

また、外見がパッとしない人が、それにも関わらず、現代の外見が物をいう選挙にうって出るということは、それだけ能力が高い、もしくは意欲がある可能性が高いはずだ。少なくとも外見がいい人よりは選ばれるべきである可能性が高い。

議論の話にしろ、選挙にしろ、少し考えれば誰もが理解できることであるはずだ。

しかし、その少しがとても遠くにある。

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