時事その他についての考察

「戦争の悲惨さを次世代に伝える」という。まるで、地上から戦争が無くなっているかのように。

戦争を起こしてはいけないのは、現代では、その被害があまりにも大きいことに尽きる。だからその悲惨さを伝えてそれを防ごうとするのは正しいことだがそれだけでは足りない。いくら頑張って後世に伝えようとしても風化は免れない。おそらく、二世代分、時がたてばそれだけでは戦争を抑止することはできなくなる。

だから、冷静に戦争の原因を探ることが大切となる。起こす側の論理、感情も知らなければそれを防ぐ手段も見つからない。

勿論、実際にそういう研究もされているが、日本では、それははほとんど太平洋戦争に片寄っている。戦争が起こる原因は沢山あるので、太平洋戦争と同じ原因のものが防げてもそれだけでは不十分。そもそも、同じ近代日本が起こした戦争であるもにも関わらず、日清、日露の両戦争に対する反省はほとんどきかれない。勿論、これは、日清、日露では、日本国内が戦場になることはほとんどなかったのに加え、戦争の長さや規模が大きく違うので、被害状況が全く違うことにもよるだろう。しかし、戦争に反対するというのなら、その反省は日清、日露戦争に対しても、もっとあってしかるべき。また、日本国内は戦場になっていないが、それはすなわち、朝鮮半島や、中国国内が戦場になっているということである。それは日本人にとっては知ったことではないのだろう。しかし当然、朝鮮、中国、両民族にとっては忘れられない記憶であるはずだ。

勝てば反省なんかしない。敵国がどうなろうと知ったことではない。他国を戦場にして、その国土を滅茶苦茶にして、人々を苦しめても気にもしない。太平洋戦争でも、中国、東南アジアの甚大な被害にはほとんど無頓着。だから、本当は、戦争が悲惨だから反省しているのですらない。ただ、負けたことが悔しいだけ。仮に同じくらいの被害があったとしても、もしも太平洋戦争に勝っていたらこれほど反戦論は高まっているだろうか。反戦論者の薄っぺらさはそこから来ている。

もう一つ、状況証拠がある。現在でも戦争またはそれに準ずる、内戦、政府の弾圧は起きている。日本人は、日本があまり関わっていない、それらにはほぼ、無頓着。ひとのことはどうでもいいのだろう。いや、家族でもないのに同じ日本人に対しては自分の事として捉えるられることがせめて良いことだと思わなくてはいけないのかも知れない。

本当は、当然、戦争を全否定するならば、すべての暴力行為を否定するところまでいかなくてはならない。そうなるとしたら、例えばどういう社会が考えられるのか、と、ここまで考えると、またしても星新一が姿をあらわすことになる。彼が描き出したのは戦争に関する全ての事柄が隠されている社会、それについて語ってもいけないし、そもそも戦争というものがある、あったことさえもが全て隠されている、あまつさえ“戦争”と口に出して言うことだけでも厳罰の対象になる社会である。(「白い服の男」)

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