つくづく管理されるのが好きなのだな、と思います。
この話を初めに聞いたときにまず思ったことは、情けない、ということです。
次に思ったことは、国会議員って暇なのかな、ということです。他に身近な法律で、何とかしてもらいたいものがあるのですが。
個人的には、法律などというものは少ないほうがいいと思っています。しかし勿論、人間社会が平穏に運営されるには、規制が全く無い、というわけにはいきません。それで、法、というものがあるわけです。しかし、エスカレーターで歩いちゃいけないって・・そんな些細なことまでとやかく言われたくはない、と思うのは少数派なのでしょうか。
まあ、実際の運用は、例えば立ち小便みたいな軽犯罪ということになるのでしょうが。
《立ち小便というものをとんと見なくなりました。これは、私たちの道徳心が向上したとか、そういうことではなく、立ち小便ができる、し易い場所が無くなったからだろうと思います。隙間がなくなったのですね。「ドラえもん」に出てくる、土管のある空き地なんて今はどこにもありません。たまに空き地があっても、ワイヤーなどで囲まれて、簡単には入れないようにされています。世知辛いことです》
こういうのは誰が言い出すんでしょうね。マスコミが話題作りのためにそういうことを見つけることから始まるんでしょうか、それとも、初めから規制をかけるつもりで、官僚がマスコミにそういう報道をけしかけるのでしょうか。(最近、似た例で、自転車に乗るときには傘をさしちゃいけなくなった、のいうのがありました)
法律ってのは、一度話題になり、問題視されると割合にすぐできるもんですね。誰か失笑して止める奴はいなかったのか。
まあ、エスカレーターで歩く人に体をぶつけられたり、または、ぶつけられそうな恐怖を感じた人は沢山いたのでしょう。それに対して、何らかの対策を考えることまではいいのです。
その対策が安易に規制、という手段で済ますことなのが怠慢だといいたいのです。
本来、発想として、欲望は叶えてやるようにするべきです。
この場合、エスカレーターを歩きたい人がいるのならば、なるべく歩かせてやるべきです。それがエスカレーターで止まっている人の迷惑になるというのならば、エスカレーターの幅を広くすればいいのです。本当は。
ただ、勿論、今更それは現実的ではありません。エスカレーターの規格、つまり、勾配の角度や速度、幅などには規制があると思います。本当は駅など、公共の場所だけでも、歩いても危険が少なくなるような幅に設定すれば良かったのでしょうが。
エスカレーターで歩くことは危険だ、ということはしばらく前から言われていたことです。本当は今までの間にやれることがあったはずです。
駅のエスカレーターでは歩く人がいるので、右側を空けることが礼儀のようになっていました。そのため、乗る順番を待っている人たちで長い列ができているのに、それでも右側を空けているという異常な光景が一般的でした。(私はほとんど電車に乗ることがないので、今はどうかは知りませんが)
こういうことは、個人の力では、なかなか変えられないものです。鉄道会社が主導して、朝のラッシュ時だけでも、一段に二人乗るように指導するべきでした。
そうしておけば、エスカレーターで歩くこともなくなるので、情けない法律ができることもなかったのです。
エスカレーターの幅は簡単には変えられない、鉄道会社も適切な方策をとるつもりがない、現状を変えるには政治の力を使うしかない、となっても、やはり今般成立した法律には反対です。
では、どうしたらいいと言うのか。エスカレーターで歩くことを禁止するのではなく、事故ががあった時、歩いていた側を重く罰することにするべきだと思うのです。
これは、自転車で傘をさすことや、もっといえば自動車の飲酒運転も同じです。
行為そのものを禁止するのか、問題が起きたときにその行為をしていた者を重く罰するのかの違いです。私は全く知りませんがおそらく、法学ではその二つの考え方には名前がついており、研究もされているでしょう。
我々の国である日本は、いざこざを嫌う国柄なので、前者を選ぶことが多いのですが、私は個人的にそれは嫌です。(日本では、と言いましたが、諸外国の事情はしりません)さらに、理想論で言えば、後者に分があるでしょう。規制というのは少ないほうがいいに決まってますから。
しかし、後者のやり方には大きな欠点があります。問題を防ぐ力が弱いことです。危険の原因である行為そのものを禁止するわけではないので、これは当然です。勿論、それでいい、と言っているわけではありません。エスカレーターでの事故を無くす、という目的は両者、同じなのです。
この課題を克服するためには、エスカレーターでの歩く行為の危険性と、もし事故がおきてしまったら、歩いている側が重い罪を負うことになる、また、横を歩かれている人たちの中には、怖い思いをしてものもいる、ということを周知徹底させて、エスカレーターで歩くことをやめさせる、もしくは、歩く時には気をつけて歩くようにさせることです。
(初めのほうで怠慢、といったのは、この、周知徹底させる、という手間のかかる作業を避けていると思われるからです。また、くり返しになりますが、本当は駅などでは、一段に二人並んで乗れば歩きようがなくなるので、問題も解決します)
法律で禁止するのは簡単でしかも効果の出やすいやり方です。何故それが望ましくないのかというと、我々が自分自身の行動について、どういう行動が適切で、どんな行為は避けたほうがいいのかを判断する機会を奪うからでもあります。
日本がこれからの国際社会を生き残っていくためには日本人一人一人の力量を上げる必要があります、色々な意味で。そのためには今までの日本の得意技である、規律や一体性では不十分でしょう。サッカーの世界で良く言われることですが、個々のレベルアップが必須なのです。
そうして、実際に(それが今の段階でレベルアップに繋がっているのかはともかく)以前よりも自分で物事を考え、判断する人は増えているように見えます。禁止するだけの法律を成立させることは、その流れを阻害するものです。
わざわざ国力を削ぐ行為だと思います。
もう一つ、これに反対する理由があります。
政治家や官僚は結果責任です。今回の例でいうと、法律を制定した結果、事故が大きく減ればそれは成功と見なされます。
しかし、これには私たちの感情などは考えられていません。新しい法律が生れたことにより私たちが感じる圧力などの不快感は無視されています。
確かに今まではそういう、数字で表せないことには対応しようがなかったでしょう。
しかし、技術の進歩により、感情なども数字で表せる時代が来るでしょう。そうなればそういうことも考慮した法律が必要になってくるはずです。そういう、大きな流れにも逆行するものでもあるのです。