太宰治が言ったことの意味は?

太宰治は初期の短編である「ダスゲマイネ」のなかで登場人物の一人に、”バイオリンより、ケエスが大事“という意味のことを言わせています。若年時に読んだ時から、これがどういうことなのか妙に気になっていました。それで、自分なりの解釈を申したいと思います。但し、太宰さんの考えていたこととは全く違う可能性は、大いにあります。その場合は、太宰治の言葉に触発されて出たわたくしの言葉、ということでどうでしょうか。

ひと言でいうと、内容よりも伝えかたが大事だということではないでしょうか、相手に何かを伝えるには。

太宰治本人のことでいえば、彼の主要テクニックである、名高い、あたかも読者に直接語りかけているかの様な、しかも、自分だけに語っているかに思わせる文体。たとえ直接、“君”もしくは、“あなた”という言葉が入っていなくとも、そう思わせる技術が、すなわち、ケエスにあたります。

いくら内容が優れていても、伝えかたを間違えてしまえば、無意味である、つまり、それでは伝わらなかった、という本人の実感ではないでしょうか。

少し下の世代、三島由紀夫と同学年の作家に山口瞳という人がいました。この人は戦争が終わった頃から、自分の半生とその時代の昭和史を書き残すのを願いとしていたそうです。実際にそれは三十才を越えてから、「江分利満氏の優雅な生活」と、「江分利満氏の華麗な生活」の二つの小説に結実することになります。(しかも直木賞のおまけつきです)ところが、実は山口さんは二十才そこそこの頃、参加していた同人誌に、既に、同じテーマの文章を「履歴書」と称して発表していたのです。しかしこれは一般的な評判になるということにはならなかったようです。わたくしはこれを読んだことがありますが、発表時に話題になってもおかしくない立派な文章でした。

では「履歴書」と「江分利満」の違いとは何なのか?タイトルからも明らかですが、ユーモア、軽み、それから「履歴書」は一人称の一人語りですが、「江分利満」では同名の架空の主人公を三人称で表しています。十年と少しの間にそれを作れるだけの余裕と技術を身に付けたのでしょう。そうしてそれが山口さんにとってのケエスだったのでしょう。

私たちも、私たちのケエスを見付けなければなりません。これは、小説などに限った話ではなく、私たちが人と繋がる存在である限り、日常の問題でもあるのですから。

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