かの、「唐獅子牡丹」で“義理と人情をはかりにかければ、義理が重たい”とわざわざうたうのは、義理を重んじるのは、無理をしていることだからです。無理をしなければ人情に走るし、そうしたいのだけれども、そこを堪えて義理を立てているわけです。
個人的に、理屈が通らないことは我慢できない、という人はいるでしょうが、誰かを説得する時には、説得する相手の数が多くなればなるほど、理屈ではなく、感情に訴えかけることが重要になります。高視聴率のテレビドラマ、特に恋愛ものや、学園ものの決めゼリフなどは、意味の通らないものだらけです。少なくとも、理屈ではなく、感情に訴えかけるようにつくられています。(わたしは“泣けるドラマ(映画)!”という惹句をみてそれを観たいとは思いませんが。感動したい、という人はそれだけ多いのでしょう。個人的には、作り物の中ではなく、実生活のなかから感動を見つけて欲しいと思うのですが)
世の中が道理の通るものであるならば、例えば、いわいるプレゼンテーションでの、プレゼンのためのテクニックなどは必要がないはずです。説得力があり、印象的なプレゼンがどう、などというよりも、プレゼンを受ける側が、それぞれの提案の実質的なものを見て、その長所、短所、自分たちの目的にあうかどうか、などを(本来は)印象や感情ではなく、理屈で判断するべきことであるはずです。何より、プレゼンされる側だって、自分たちの利益にかかわることなのですから。
《プレゼンの上手い下手ではなく、実質的な情報をもとにして判断をしたければ、相手に流れをつくらせない、文字通りの意味で調子にのせない、という手があります。具体的には、要所要所で質問をすればいいです。それをやれば、雰囲気ではなく、実際に必要な情報を取り出すことができます》
しかし、現実には、いかに感情を動かすか、が決め手になりがちであるようです。
ただ、この話をすすめる上では困ったことなのですが、それはあながち間違った決め方でもないようなのです。結局、感情のほうが理屈よりも、より多くの情報をみている、ということでしょうか。いい例えかどうかはわかりませんが、理屈は視覚に似ています。では感情はというと、それ以外の、聴覚、嗅覚、触覚などが総動員された感じでしょうか。見たものというのは、言葉で説明がし易いです。しかし、それ以外の感覚はなかなか言語化が難しいものです。だからといって、感覚として、視覚よりも劣っているわけではありません。少なくとも、いいプレゼンをする、ということは、それが出来るだけの能力やそれをしようという熱意がある、ということにもなりますので。
それで、結局なんなんだ、というと、
・人は理屈よりも感情で動かされやすい。
・それはあながち、間違っているわけでは本来はない。
・しかし、そのことを知っている人につけこまれる危険はある。
・自分も、それを上手く利用することもできる。
・結論としては、自分がやる側であるなら、相手の感情面をつくことが有効。受ける側であれば、感情だけに流されるのではなく、ちゃんとした話なのかを見極めること、ということでしょうか。