あるドラマのなかで、男性が恋人である女性に怒鳴る場面がありました。それについて語る別の番組があったのですが、そのなかで、ある若い女性が、素の表情で、「怒鳴る人は嫌いです」と言っていました。
なるほど、怒鳴る、というのは、相手を自分に従わせるためにするものであって、本質的に暴力と同じものなのかも知れません。現代日本の風潮でいうと、否定されるものなのでしょう。
しかし、ここで否定されているのは、相手を自分に従わせることなのでしょうか、それとも、それを無理矢理やることなのでしょうか。
夫婦や恋人どうしであれば、それぞれの意見の違いをすり合わせることはどうしても必要なことでしょう。結果的に相手に自分の意見を飲ませることについて、暴力でそれをするのは論外で、怒鳴るなど、威嚇してそれをするのも駄目だけれども、説得してするのはいいのでしょうか。これは、やり方は違いますが、動機と結果は同じなのですが。
説得されるということは、相手も納得したことなのでいいのでしょうか。そうだしたら、口下手な人と弁のたつ人の間でずいぶんな違いがでてきますが。
何をごちゃごちゃ言っているのかというと、そんなものは時代の要請もしくは時代の雰囲気に過ぎないのであって、正しいとか間違っている、といったことではない、といいたいわけです。こう言っているわたしだって、やっぱり暴力や暴言は嫌ですから。そうして、そう感じることが時代の要請または雰囲気によっていることなのです。
くだんの女性はいいのですよ、正誤や善悪をいったのではなく、自分の好みをいったのですから。
実際に、既にパワー・ハラスメントという概念がありますので、怒鳴る、というのもいずれは犯罪の領域に入るのかもしれません。それは構わないのですが、それが普遍的に正しいわけではない、ということだけは忘れてしまってはいけないことです。
端的にいいますと、平和な時代が長く続くと、社会は女性的な主張が大勢を占めるようになるというだけのことです。
ただそれだけのことなのに、暴言や暴力は絶対的に間違ったことなのだ、それは普遍的に正しいのだ、正義は我にあるのだ、ということになると、それ暴言や暴力で相手を従わせるのと同じことをしていることになるのです。