前項で男は奴隷である、と記しました。誰の奴隷かというと、普通に考えると、女の奴隷ということになりますが、また、一部分ではそれも正解なのですが、本当は少し違います。自分の子孫、遺伝子を残す、という仕事に対しての奴隷です。女性に対する奴隷であるようにうつ
るのは、女性の方がその仕事に近いので、男性は女性を通して仕事をすることになるからです。女性を通してしか自らの仕事が出来ないために、一見、女性にかしずいているように見えるわけです。
(まわりくどくいっていますが、子供は女性にしか産めないという話です)
では、女性はどうかといいますと、事情は同じです。子孫、遺伝子を残すための奴隷であることには変わりはありません。ただ、男性よりも直接的かつ根源に近い仕事をしているという誇りがあり、はっきり言って本当は男など眼中にないでしょう。
(えーとですね、女性も一時期男性にのぼせているかに見えるのは子供をつくるために一瞬、その協力がいるからです。欲をいえば、子供が乳児期の二、三年は手元に置いておきたいので、愛情を持ち、もたれているかのようにしているにすぎません。―これを言う人達はみなもう少し暗示的にいってますが、まあいいや―)
私たちは私たちの子孫、遺伝子が永遠に続くことを、本当は不可能と知っていることを、願ってやみません。私たちが、永遠、無限といったことに限りない憧れをいだくのはそのためでしょう。(神、宗教、不老不死、わが巨人軍は永久に不滅です!)
《これに限らず、手に入らないもの、手にいれるのが難しいものに、憧れや執着をいだくのはなんの呪いなのでしょう。実際は既にもっていたり、すぐ手にいれることが出来るものと大した違いはないことがほとんどなのに》
この呪縛をどうとらえればいいのでしょう?
私たちには逃げられない呪縛がいくつもあります。異性への執着、生への執着、永遠を憧れる気持ち・・
それらを絶ちきることも可能かもしれません。それは諦めなのか、克服なのか、目指すべきのものなのか、意味のないものなのか、自死とはなにか、究極の解決方法ではないのか、自死は無意味だとしたら全ての束縛に挑戦することをやめて、プログラムの罠にはまるべきではないのか、そうして、そのなかでの最適化をはかるべきではないのか?(つまり、ごちゃごちゃいってないで、人生を楽しみなさい、ということです。考えるのならば、より、楽しめる方法を考えろ、ということです)