かなり昔から疑っていることがあります。
今はどうか知りませんが、三十年くらい前には、学生たるもの、ウッディ・アレンの映画を観なければ知的好奇心に欠ける、観て面白いと言わなければ、それは頭が悪い証拠だ、という風潮がありました。
仕方がないので観ましたよ、代表作らしかった、アカデミー賞もとった「アニー・ホール」。全然、面白くありませんでした。それで、これは観なかったことにして“ウッディ・アレン”という人も自分の世界にはいない人だ、ということにしておきました。
でも、ほら、アカデミー賞授賞式の日にはそれには出席せずに、地元のライヴ・ハウスでクラリネットを吹きまくっている、などという有名なエピソードを聞いたりすると、かっこいいと思うじゃないですか。それでもう一回観ましたよ、何年か後に。そうしたら面白いわけがないんですね。 大変に有名な作品なのでご存知のかたも多いと思いますが、あれは主に独白が面白い映画であって、その独白もユダヤの伝統芸なのか、もう、速射砲のような早口で字幕なんかは追いつくわけもなく、また、字で読んでも面白さは半減しちゃいます。極めつきは、多分有名なシーンなので今更なのでしょうが、男女が会話をしている場面で、それぞれの心の声が実際に口にされている台詞とは別に字幕で表示されるという、英語が理解できればさぞや面白いだろう、という演出がありました。こんなもの、英語圏ではない人間は理解が追いつくわけがありません。ですから、そういう説明や言い訳もなく、ウッディ・アレンを絶賛する人たちをみると非常に嘘臭く思うわけです。
ビリー・ホリデーもジョニ・ミッチェルも勿論、素晴らしい歌い手たちです。
歌にとって歌詞はとても大切なものでしょうが、その重要度はそれぞれの歌手によって違ってきます。これはどちらが優れている、といったことではなく、タイプが違う、という話です。ビリー・ホリデーと同じく、偉大なジャズ・シンガーである、エラ・フィッツィジェラルドはスキャットの名手です。彼女にとっても歌詞は大事なものでしょうが、時には歌詞がなくてもパフォーマンスするし出来るということです。しかし、ビリー・ホリデーにとって、歌詞のない歌は歌うのに値しないものだったのでしょう。彼女の歌詞を伝えたいという思いが伝わってくるような歌を聴くとそうとしか思えません。よく器楽的といわれる、メロディー・ラインを外れる歌いかたも歌詞を伝えるためにしていたことだと思います。ですから、ビリー・ホリデーはスキャットをしないのです。歌詞がわからなくても、彼女の歌は楽しいのですが、(楽しいんです、彼女の歌は)歌詞が聞き取れればさらに気持ちよく聴けるだろうなぁ、と思うわけです。
《この話は一番有名な「奇妙な果実」や最晩年の「ラスト・レコーディング」には当てはまりません。歌詞を聴かせる、語りかける、ということでは同じなのですが、別の凄みが入ってきているので。今は、ビリー・ホリデーといえばこっちのほうが遥かに知られているので、若かりし頃の、聴いていると心が暖かくなってくるような歌唱が二の次になっているようなのは残念です。何故そんなにそれが私たちの心に届くのかというと、彼女が人間というものを強く信じていたからではないかと思うのです》
ジョニ・ミッチェルに関しても然りでありまして、この人はフォーク・ソングであるので当然かもしれませんが、歌唱だけでも素晴らしくはあるのでしょうが、やはり、歌詞がわからなければ魅力は半減するでしょう。日本でもフォーク・ソング全盛期の頃の井上陽水や吉田拓郎なんかも同じなのではないでしょうか。
ですから、やはり、説明や言い訳もなく、ビリー・ホリデーやジョニ・ミッチェルを誉めたたえる人たちも少しばかり無理をしているのではないのか、と思うわけです。