時事その他についての考察

障害者連続虐殺事件をどう捉えるべきか

この事件の裁判が進んでいるというニュースを見て当時考えたことを思い出しました。

まずは、理屈ではなく、犯人とその行動に嫌悪と怒りを覚えるのはとても大切なことで正しいことです。本来はそれが全てで付け加えることはない、また、付け加えるべきではないのですが、いかんせん、今はそれが通用しない時代でもありますので理屈をつけます。

とても簡単なことです。犯人は精神障害者その他、社会に全く貢献せず、負担のみ与える人、というのは排除するのが全体の為だと言っているのでしょうが、私たち自身や家族、その他大切な人、つまりは全員、たとえ今はいわいる正常な状態であってもいつそうなるかわからないのです。

そもそも確実に、人は皆、年をとったら誰かの助けをうけなければ生きられなくなります。そうなったときでも社会から排除されない、という前提があるからこそ、私たちは安心して生活ができ、自分の属している社会に貢献しようとも思えるのです。

《一般的に恐怖にもとずいた統治が長続きしないわけもここにあります。確かに人を動かすのにその怖れに訴えかける、やらなければ存在さえできなくなるかもしれない、と思わせるのは効果的なやり方です。しかし、その緊張にずっと耐えられる人はあまりいません。

残念ながら恐怖が全くない統治もまた長続きしません。結局は昔から言われている一般的な知恵である、アメのムチを効果的に使うのが有効的なようです》

大体、赤ん坊はどうなるのか、ともいえます。赤ん坊が社会に物質的に貢献しているとはいえません。赤ん坊は将来、大人になって社会に貢献するようになる、などといってはいけません。そんなことをいったら精神障害の方も御老人も可能性があるということでは同じですから。

ここでいわいる姥捨山や赤ん坊の間引きについて触れないといけません。

これらの行為を否定することはわたしには出来ません。それでは、狂気的な殺人者と姥捨や間引きでは何が違うのか。一つには社会の合意(今はかえって社会的コンセンサスとでもいったほうがわかりやすいのかもしれませんが) の有無があります。しかし、アメリカの汚点である赤狩りや中世ヨーロッパの魔女狩りという狂気もありますので、それだけでは説明になりません。やむにやまれずにやったことと、狂信的にやったこと、また生き残るために本当に必要だったこととそうではなかったという違いはありますが。これは今はわかりません。

最初に申上げました、犯人の行為を糾弾するのに本来は理屈をつけるべきではない、ということをご説明します。(但しこれはわたしではなく、山本夏彦はさんがいっていたことです)つまり、いつもいつも上手く説明できるわけではないからです。それでもやはり、駄目なものは駄目なのですから”頭ごなし”というのも必要な時があるということです。

そうではある筈なのですが今はそうは出来ないのは社会規範が定まっていないからです。きっかけはやはり大衆文化がお金になるようになったからではないでしょうか。

大衆芸能は昔からあったわけですが、葛飾北斎や滝沢馬琴が大金持ちであったわけではないでしょう。それが特に戦後、世の中が豊かになったことにより、大きな商売になってきました。大衆文化の理解度、吸収度では若いほうが能力は高いですから大人はついていけません。人生経験からだけで身につけた知恵では一世代変わると通用しなる分野が多く出てきて、年かさのほうが一般的には優秀であるという前提が崩れてしまいました。

別にテクノロジーの進化があります。親が子供に例えばパソコンの使い方を聞くようでは親の権威が揺らいでしまうのも当然といえば当然です。

本当はいくら時代が変わっても人が人である限りは変わらない規範というものはあるのですが、それと実際に変わってしまった規範の区別をつけるのはなかなか難しいので(わたしにもうまくできません)混乱していまっています。

どうすればいいのかははっきりはわかりませんが、昔のように大人になれば一通りの人生の基準が自然に身に付くのではないのですから、一生、考え続け、勉強し続けることが必要なのでしょう。

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