時事その他についての考察

居場所を捨てた私たち

本来、人間社会はそれぞれの構成員に居場所を与えるように出来ている筈なのですが、近代社会はそれを崩してしまいました。

自分の居場所を見つけるのは、それほど簡単なことではありません。そうして、人間というものは、自分の居場所がないと生きづらさを強く感じる生き物です。

太古から私たちには血縁、地縁というものがありました。しかしそれが余りにも当たり前にあったので、その有難味を忘れてしまったのです。かえって鬱陶しいもののように思っていたきらいもあります。近代社会が生まれたあと、それと同時に生じた華やかな都会生活 に憧れて、いや、当時はそれよりも生活苦でやむにやまれずに、私たちは大挙、地縁、血縁を捨てて都会にでてきました。そしてその捨てたものの大きさ、重大さはわかっていませんでした。

西洋は知らず、日本の近代はせいぜい高度成長期から始まったようなものです。その第一世代が地元から出てきたのは二十歳前位でしょう。その人たちはその年代になるまでに周囲との関係は築けていたでしょうから、帰省をすれば地縁、血縁はあるのです。ですので、これらが本当に無くなったのはその子供世代です。年齢でいうと今五十過ぎ位になっているでしょうか。ですから、今言われている中高年のひきこもりも大体、その年代なのだと思います。

《これまでのところを別の言い方にすると、まず、私たちのなかには何割かの割合で、自分の居場所、役割を見つけ難い人たちがいるというこです。そういう人たちは昔からいたのですが、人間社会には昔から地縁、血縁というものがあって、その全ての構成員に居場所、役割を与えていました。しかし、現代社会では地縁、血縁はほとんど無くなってしまったので、私たちは自分で自分の居場所、役割を見つけなければならなくなっている、ということです。そうして、それに失敗した人たちが相当数いる、ということです》

よく、戦争がおきると精神障害はなくなるといいます。理由は自分が何をしたらいいのかがはっきりするからでしょう。努力する気持ちはあっても何をしていいのかわからないとき、人は内向きになり、弱気になります。みなさんも思い出してください。たいていの人は新しく学校、会社などに入ったとき、自分の立ち位置がわからずに不安でなんとかそれを早くつかもうと必死になったことがあるはずです。もしも、いつまでもそれをつかむことができなければ、それは大層辛いことになるでしょう。そうして、人間というものは立ち位置をもたないものに対しては大変に残酷な振る舞いができるものです。大抵の場合、自らが残酷な振る舞いをしていることに気がついてさえいません。それでも多くの人は立ち位置がなかろうと必死に学校や会社に通い続けます。それに耐えられなくなった人を少なくともわたしは責めることはできません。それを責めたり、人として劣っているかのように思う人は自分にもあった、居場所を求めて必死に足掻いた時の記憶は忘れてしまっているからでしょう。それは、忘れてしまうほど、忘れなければならないほど辛い記憶であったからです。(知り合いの一人もいない立食パーティーに出なければならなくなったとでも考えると状況は少し、把握できるかもしれません。ついでに日本語の通じない外国人しかいないパーティーだと仮定してみてはどうでしょう)

自分で自分の居場所を作る一番手っ取り早い方法は家庭を持つことです。家庭を持てば、それが円満であれば居場所を確保できるのは勿論、仮に夫婦仲が上手くいかなくても、「夫婦仲の上手くいっていない夫(妻)」、「家に居場所の無い夫(妻)」という役回りが手に入ります。これは中々辛い立場かもしれませんが、立場がないことに比べたら充分、ましなのです。しかし今は結婚すらしにくく(もしくはする気にならない)なっています。

間違ってはいけないのは、自分がどうしたらいいのかわからない人がいても、それが、その人の価値をいささかでも落とすことではないことは 勿論のこと、その人が弱いわけでもない、ということです。

自分の居場所を見つけるのが苦手だからといって、他の能力も人より劣っていることにはなりません。

現代社会に適応する能力に劣っていても、環境が違えば優れた能力を発揮することができる可能性は大いにあります。と言うよりも、各人の能力を最大限、発揮できる環境は必ず、あるはずです。

「ドラえもん」のエピソードで、何をやっても上手くやれない野比のび太くんですが、寝つきは異常に速い、ということで、ドラえもんの力で兎に角、寝つきが速ければ速い程偉い、という社会に変えてもらう、という話がありました。

昔話の「三年寝太郎」というのも似たテーマです。昔の経営者には、一見、何の役にもたっていない部下でも、何か面白そう、何かを持っていそう、という極めて曖昧な理由で組織に留めておいた人たちがいた、と聞きます。いまでもそういう人たちは少なからず居られると思いたいものです。

私たちはどうしても、人の価値をその人の持つ影響力や経済力ではかってしまいがちですが、それは相対的なものでしかないのです。

今の私たちは既に居場所を無くして漂流しかかっているのにもかかわらず、さらに友人関係などのつながりまで少なくしようとしています。

このまま、居場所を失って、生きる意欲まで無くす人たちが増え続るのか、インターネットがその隙間を埋められるのか、今のところはわかりません。個人的には目の前にいる人を、その人がたとえ見ず知らずの人であっても尊重することからはじまる、と思いたいのですが、おそらく、そういう行動は人間の遺伝子には組み込まれていないでしょう。

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