テレビを観ていると、政府、官僚は頑張っている、世の中が上手くいかないのは仕方のない部分と、外国の国家元首に悪い人たちがいるからだと思わされる。
それを信じている限りは生活は苦しいかもしれないが、最低限の収入があればそれなりに平穏に暮らせる。
人々が皆、同じ思いでいれば助け合うこともするだろう。そういう人との繋がりのある世界は何にも代え難い環境だ。
旧Twitterなどを見ていると、世の中は腐りきっていて、おまけに意味不明な悪意に満ち満ちていることを突きつけられる。
暗澹たる気持ちにならざるを得ない。絶望しかないのではないのか、という気さえする。
この類の問題を扱った創作物としてすぐ思いつくのはドストエフスキーの「大審問官」と映画「未来世紀ブラジル」位だが、他にも沢山あることだろう。
答えを出すとしたら、絶望にも耐えて抗い続けることが正解だ、というのが模範なのだろう。
取り敢えず、個人にはそれを選択するとする。
しかし、世の大多数の人たちがそれに耐えられるとは到底思えない。また、真実を知らされることを望んでいるとさえ思えない。
試しにSNSをあまり見ていない人に、テレビで報じない黒い部分のうちで、陰謀論ではないとほぼ確信できるものを話してみるといい。勿論関係性や話し方の巧拙にもよるだろうが、概ね嫌な顔をされるだろう。それを無視して話し続ければ怒られるかもしれない。
本当を言うと、そういう反応になるのは理解できる。
自分が同じ目にあったら同様な反応をとるかもしれない。人は誰しも嫌な話は聴きたくない。それでも黒い部分に目を向ける人たちがいるのは、その人たちがそうできるのは、大体において「慣れ」だと思う。
何回か同じ種類の情報に接すると耐性ができるのだ。
当たり前だけど、それにも個人差がある。初めから真実に向き合える人もいるだろう。比較的早く耐性ができる人もいるだろう。
しかし、どうしてもそれに耐えられない人が大多数なのではないのか(これには安易な陰謀論に流されたり、大局を見ないで比較的些細な悪行に激昂する人も含まれる。真実を見ることができない、という意味では同じことなので)
そうであるならば、情報が統制された社会、その中で、ささやかな幸せ、もしくは静かに諦めることを受け入れることしかできない社会というのは必然なのではないのか。
と、いうよりも、そういう人たちで構成されているからこそ、現在只今、社会はこうなってしまっているのではないのか。