ここで見方を変えて、人間が生きづらさを感じてしまうことの、いわば生物学的な理由を考えてみる。
現代の、いわいる先進国では、その多くの住民で衣食住の問題はある程度解決されているといっていいだろう。
それでも、我々は生きづらさを感じている。よく言われるように、その大半は他者との関係が原因だろう。
おかしいんだよね。ヒトは他者と関係を持ち、協力し合うことで生き残ってきた生物だ。
そうであるならば、他者との関係がストレスになってしまうのはまずいだろう。 生き残りを不利になってしまうのではないか。
しかし、現実に我々は他者との関係に大いに悩む。我々の持つ、限られた頭脳のエネルギーの多くはその解決、又はただ、うじうじと悩むことに費やされる。無駄ではないか。
無駄なのだろうか。我々がエネルギー不足になると腹が減ったと感じたり、体が傷つくと痛みを感じたりするのは、そういう不快な状態になると、これを解決しようとして物を食べたり、傷の手当をしたりさせるためだ。
人間関係に悩むというのも、悩ませることそのことが我々に必要だからかもしれない。
もしも、全ての人間関係が良好で、楽しくて、幸せで仕方がなければ、我々は自分や社会を進歩させる努力を放棄するだろう。そんなことをする必要がないから。
そうなるとどうなるかというと、人間も社会も進化、進歩を止めることになる。それは停滞であり、ジリ貧つまり、緩やかな滅びの道かもしれない。
また、自滅でなくとも、他の生物との生存競争に負けることになるかもしれない。
そう考えると、物語のなかや、妄想で考えるような完全な至福の状態などというものは、そもそもあり得ない(生物としてそうならないように出来ている)またはあっても一瞬なことなのだろう。我々は、その一瞬を、それが一瞬ということであるのも知らずに、追い求める存在なのかもしれない。
少なくても、そのように客観的に見ることができれば、多少は気も楽になるというものではないか。
※他者との関係に苦労する理由として、もう一つの仮説がある。すなわち、もともと生き物というものは単独で生きていたものだ。それが進化の過程で“集団”というものを編み出した。つまり、単独生活のほうが集団生活よりも本能に近い、より根源的な生き方ということだ。今まで単独でやってきた者が、いきなり集団のなかに放り込まれてもどうしたらいいのかわからないだろう。やはり本能に、より近い欲望や感覚のほうが強いということなのかもしれない。我々の目から見ると上手く集団を機能させているように見える、蟻や蜂なども、実はそれなりにストレスを感じているのかもしれない。