ジャニー喜多川の犯罪行為に対する事後糾弾が起こっている。
しかし、あらためて注意しなければならないことだが、(今わかっている所では)犯罪者は故人であるジャニー喜多川一人だけだ。
勿論、民事的な問題として、ジャニーズ事務所として、被害者の方々に損害賠償をしなければならないことになるだろう。しかし、それと刑事責任は全く別の話である。
現社長が取締役から降りないのは相続税対策のためだとか、この騒ぎの最中にハワイに行ったとか、そんなことは責められるいわれはない。
(ついでながら、テレビ局に圧力をかけていた、ということも、行為としては最低のことであるが、違法というわけではないだろう、おそらく)
※念の為に逝っておくが、僕は以前からジャニーズ事務所は嫌いである。そこに所属しているタレントたちも、そのほとんどは気持ち悪い人たちだと思っている。そう思う理由としては、彼らが、テレビなどマスコミ業界において、その実力以上に優遇されている気がするということがある。いや、彼らが充分に努力をしていて、実力にしても、それなりにはあるのは理解している。でもやはり、いわば、下駄を履かせてもらっている、のは事実だろう。
統一教会と、主に自民党の政治家とのつながり、癒着を問題視することがあった。(今もあるが)
統一教会が悪逆非道であるのは事実のようだし、被害者に対して、その損害を賠償したり、更には解散させられるのも妥当なことだと思う。
しかし、どのような癒着があろうとも、その犯罪行為に関わっていない政治家の、政治家生命まで奪おうとする行為に正当性はない。(選挙で二度と選ばないのは問題ない)
まぁ、二度と統一教会とは関わらない、とするのが妥当なところではないだろうか。
しかし、その集まりに参加して、マザームーンと言ったとか言わないとか、仕様もないことで大騒ぎをしている。(集まりに出たのならば、世辞にでもマザームーン呼ばわり位するだろう。周りの人たちに好かれるようにするのも政治家の仕事だ)
保育園の送迎バスの車内に放置されて、園児が亡くなってしまうという痛ましい事故が何件かあった。
保育園側に責任がないわけではない。場合によっては刑事責任にまで問われるかもしれない事案でもあろう。
しかし、事故は起きるものだ。幼児という存在は、か弱く、しかも予測不能の行動をとる。人間に、事故を完全に防ぐことはできない。これは、少なくても、当事者以外の者たちがどうこう言うことではない。
現代は閉塞感に満ちた社会だとよく言われる。日本は今、どちらかというと衰退しているので、閉塞感があるのは仕方がない。
しかし、過度に他人の過ちを糾弾することが常態になっていることの責任は我々にある。
そして、閉塞感の原因のいくらかは、まるで監視社会にでもなったかのようなこの状況がある。
そう、我々は、自分たちで生きづらい世の中にしておいて、世の中は生きづらいと嘆いているのだ。