第一報
・自転車に車が突っ込んで幼児を含む死傷者が出る。加害者は助手席にいたペットにかまっていて事故を起こしてしまった。(一部でじゃれていたという報道もあった)
《これを読んで思ったことを覚えておいて欲しい》
第二報
・加害者はペットのインコの具合が悪かったので動物病院に連れていく途中であった。ペットを気遣ってよそ見をしてしまっために運転を誤ってしまった。
第一報を読んでの感想と、第二報まで知ったあとの感想は違うのではないだろうか。
僕は違った。助手席にいたペットは犬猫の類いだと思い込んでいたし、それに気を取られていたというのは、不注意かつ、不適切にあやしたり、かまったりしていたのだと思い込んでいた。
やってしまったことの非道さは変わらないが、(偉そうな言い方になってしまうが)情状酌量の余地が違うと感じられる。
タイトルにも書いた通り、見ず知らずの、自分とは利害関係のない出来事にも感情移入できるのはヒトが(わざわざ)獲得した能力だろう。おそらく、そうやって集団の一体感を高めて生存競争を有利にしてきたのだろう。
しかし、それは時には間違った判断をしてしまう原因となったり、暴走する要因となることもある。
また、利口な者に利用されて行動をコントロールされることもある。
今のニュースにしたところで、第二報が過不足なく正しいと決まっているわけではない。隠れた事実がまだあるのかもしれない。
先日、電車内で煙草を吸っていた男を注意した高校生がその男に酷い暴行を受けてしまったというニュースがあった。居合わせた乗客たちはそれを止めようとしなかったという。
これほど酷い話はないので、ワイドショーでもネットでも多くの人たちが物を言っている。
それはいい、それはいいのだがその意見は現実にあった事件に対してではなく、報道された情報から一般的に考えられる一部架空の、想像上の事件に対してのものになっていることがわかっていなければいけない。
何を言っているのかというと、我々は“電車に居合わせた乗客”と聞くと大人の男女を思い浮かべるだろう。自分が日頃電車を利用している時に乗りあわせる人たちを思い浮かべるだろう。
しかしニュースでは乗客たちの素性は言われていない。それは下校途中の小学生の集団だったかもしれない。老人会の集団だったかもしれない。被害を受けた高校生も定時制の生徒で中年の男性だったかもしれない。加害者も異様にいかつい体格をした大男で大きなナイフを持っていたのかもしれない。
事実と想像をごちゃごちゃにしてはいけない。世の中の無用なトラブルのいくばくかは、勝手に自分が想像したことを現実だと思い込んで(そういう想像は悪いものであることの方が多い)無実な人、事に要らぬ反感を持ったり、攻撃を仕掛けることから起きる。
まあ、でもこんなことを言っても仕方がない。そういうことを言う人たちは何を言っても変わらないし、言われて成る程と思う人たちは言われなくてもいずれは気付く人たちだ。
人間の傾向というか、種類が違うのだろう。つまりは役割が違うのだろう。
物事を深く考えずにストレートに反応することはエネルギーを生むので社会の活気には必要なのだろう。
皆が私の言うことに賛成するような人たちになってしまったら世間はどんよりとしてしまうのかもしれない。
そういう人種は一部に居ればいいのだろう。そうして、時々暴走を止める役割を演じればいいのだろう。