「おかえりモネ」の重要な登場人物に東日本大震災で奥さんを亡くした人が出てくる。
この男は腕のいい漁師だったのだが、それ以来全く無気力になって、時々大酒を呑んで暴れるようになってしまう。
ネットでは同情する意見も多い一方で、いつまでも立ち直れないことに苛立ちを示す意見も散見される。
しかし、同情や理解、苛立ちと同時に我々が知らなければならないのは実際にそういう人たちがいるということだ。
“震災で妻を亡くした人”というのは一つの例に過ぎない。他に様々な事情で自分を失っている人たちがいるだろう。
衣食住は行政で保証できるが心を支えることは今の行政にはできない。
当たり前だが災害は昔から数多くあった。(ここからは想像が混じってしまうが)近代社会以前であっても災害時には救済措置がとられていただろう。しかし、衣食住がほぼ完全に保証されるようになったのは極く最近のことだ。
それでも我々は生き残ってこれた。それは共同体があったからである。共同体が助け合っていたばかりだというつもりは無い。そこには争いもあっただろう。その争いは生死に関わることもあっただろうし、場合によっては追放されるということもあっただろう。
しかし少なくともそこで何が起こっているかは皆が知っていた。誰が何をした、しているということを皆が知っていた。そうして、助け合わなければいけないということは考えるまでもない、当たり前のこととして行われていたはずだ。(そうしないと誰も生き残ることはできないのだから)
それは助け合いであると共に束縛でもある。いわいるムラ社会である。
西洋諸国のことは知らないが少なくとも日本における近代化とはムラを壊すことでもあった。(これは今も続いている。例えば談合などはムラ社会によく見られる習性であろう)
欠点は目立つが長所は目立たないことがある。当たり前と思われていたことが実は長年の積み重ねから生み出された無意識の知恵の結晶であることがある。
ムラ社会の非合理性や過度の束縛などなどは大きな欠陥であるかもしれないが我々は共同体なしに生きていくことはできない。
近代化はムラを壊したが、替わりの共同体は未だに出来ていない。実のところ家族すらうしなおうとしている。
日本社会が本当に近代化したのは高度成長から。つまりは1950年代の後半からであろう。それまで近代を担っていたのは一部の都会だけであり、地方は近代国家というよりは江戸時代に近いくらいのものだっただろう。そうしてそれ以降の近代化が余りに急激だったために新しい共同体、社会を作る暇が無かった。
話を「おかえりモネ」に戻します。
妻を亡くした元漁師には幼なじみの親友がいます。この親友が彼を助けようとして、どうやら、なんとか、成功しそうです。(8/30日時点では)
しかしその親友がいなければどうなってしまったでしょう。(この辺りはドラマなので。本当に似た話があれば、漁師仲間もいるだろうし、他にも親身になる人がいてもおかしくはない。これは島の話なのでまだ共同体が生きている可能性が高い)
ではもしも東京で大災害が起きたらどうでしょう。我々が自分を失ってしまった時に助けてくれる人がいるでしょうか。また、何かがあったらなんとしても助けなければと思える人が我々にいるでしょうか。
物事が上手くいっている時には共同体は余り必要ではないのでしょう。高度成長期から平成の初めくらいまでは問題は深刻ではないように見えていました。
しかし現在はそれがありありと見えてきています。
作品の制作者がそういう意図を持って作っているのかは知りません。しかし少なくともそこまで考えさせる力のある作品であることは確かだと思います。
自らも傷ついている時、さらに傷の深い他者にどう接するべきなのか。そういう問い掛けもされているのだと思います。