エドガ・アラン・ポーは詩作や文芸批評などでも活躍したらしいですけれども、一般的には(私にも)恐怖小説の名手として、さらには推理小説を創った人ということで知られています。
世界初の推理小説の「モルグ街の殺人」で世界初の小説上の名探偵であるオーギュスト・デュパンが密室への侵入、脱出経路を推理する場面があります。そのなかに、
「論理的に考えてそこにしか可能性がない、と思われるときには、それが一見不可能にみえても、その不可能性を疑うべきだ」という意味の台詞があります。
デュパンを主人公にした三作でポーが描きたかったことはこれにつきるのではないだろうか、と思います。
具体的に言った方がいいですか?煩雑になっちゃうかもしれませんが、やってみますか。
現場の凄惨さから考えて、殺人なのは明らかです。ということは、殺したものは部屋から出ていったことになります。出口の可能性があるのは、入り口のドア、煙突、窓の三つです。デュパンによると、警察官は、その三つの可能性を漫然と等分に考えてしまったため、その一つ一つを調べるのに集中力が分散してしまった。その結果、真実を見逃してしまった。彼に言わせれば、状況を論理的に考えて可能性があるのは、窓だけでした。窓は太い釘で窓枠に打ち付けられていたため脱出不可能と考えられていたのですが、彼が調査したところ、実は釘は錆びて折れていて、鍵さえはずせは簡単に開けることができました。それを発見できたのは、可能性がそこにしかない、と確信していたため、集中して調べることができたため、というのです。
ちゃんと伝わったでしょうか?いろいろ指摘したくなるところはあると思いますが、ポーの言いたいことはわかると思います。
当時現実にあった見せ物で、実際は手品なのを超常現象と称して荒稼ぎしていたものがあったそうです。ポーが現物も見ずにそのトリックを見破ったエッセイがあるのですが、おそらく、そのあとに「モルグ街」を書いたのでしょう。
そのなかで、不可能なものは不可能なので、まず、その選択肢を外したうえで、ではどうすれば、その超常現象に見えることが可能になるのかを考える。という意味の一節があり、この考えがデュパンにつながったのではないかと思います。(このエッセイは探したのですが見つけられませんでした。ですから、具体的なことが書けなくてあいすみません)
【私もテレビで手品をやるのをみるときにはそういう気持ちでたねを見破ってやろうと気合いをいれるのですが、ついぞわかったためしがありません。何年か前に評判になった手品で、窓や水槽などガラスに手を貫通させて、しかも向こう側の物を現実に取ってくる手品はいまだに謎です。(実際にガラスの向こうにあったものが無くなって、こっちにくるわけです)。ポー流に考えるとガラスを手が突き抜けるわけはないので、そこは錯覚と考えて、物の移動トリックを考えればいいのでしょうが、さっぱりわかりません。】
ポーにとってはその考えを伝えるために発明した形式が後に推理小説という一大潮流になったわけです。おそらく書こうと思えばもっと続編は書けたのではないかと思います、お金にもなったでしょうし。しかし、本人にとってはもう片のついた形式になったのでしょう。それでもその形で三作書いたわけですから気にいってはいたのでしょう。
ところで、何故唐突にポーの話かといいますと、今、「シャーロック」というドラマがやっているので、単純にその連想です。少しだけ観たのですが佐々木蔵之介がいい役をやっていました。佐々木蔵之介を観ると、以前何かのドラマで天海祐希が彼に向かって
「なによ!ハンサムなラクダみたいな顔して!」といい放ったのを思い出してしまいます。ああ、「離婚弁護士」です。脚本が誰かはしりませんが、天才か?と思いました。