宮崎駿の初演出作品であるテレビアニメ「未来少年コナン」のなかで“おじい”は今際のきわにコナンに訴えます。「仲間を見つけろ」と。なぜなら「人は一人では生きていけない。いや生きてはいけないのだ」からと。
その通りなのでしょう。人間は集団で行動をする、組織をつくることで生き残りをはかった生き物の一つなのでしょう。
しかし、我々の悩みのなかで一番多いのは人間関係だということは良く言われることです。
おかしいではありませんか。矛盾してはいませんか。集団行動がプログラムされているのならば、それを少なくとも苦にはしないのでなければ上手く生きるのは難しくなってしまいます。
規模の問題という考えもあるでしょう。元来我々はせいぜい数十人までしか対応できない能力しかもっていないのかもしれません。一般的な会社などそれ以上の組織になると処理能力が追い付かなくなっていまいストレスになっていまうのかもしれません。都会の生活などたとえ直接の関わりがなくとも大勢の人の存在を感じることそのものがストレスになるのかもしれません。
しかし組織の最小単位ともいえる家族はどうでしょう。健全とは言わなくともおおむね問題はないという家族はどれだけいるでしょうか。何をもって健全というかという基準も難しいので判断は難しいですが、一つの目安として離婚率があります。厚生労働省の調査で2019年ではおよそ三組に一組が離婚しているということです。問題は大いにあると言えそうです。
当然こういうことは様々な人たちが考えており小説のテーマにも取り上げられることです。
村上春樹の多くの長編小説では大切な人とのつながりを失った主人公がそれを取り戻す苦闘をする様が描かれています。失ったということは主人公はその前に何かしら間違ったことをしてしまった可能性があります。本人にその気がないのにしてしまったことが他者には大きな影響を与えそれが致命的な結果を生むことがある。それを取り戻すには大変な努力をしなければならない。たとえそれがたった二人の問題だとしても二人いればそれは組織でありそれは組織の問題だともいえます。また村上春樹の小説の主人公たちは大きな組織には属していません。家族もほとんど描かれず友人関係の希薄さが強調されたりします。これはただ作者が作品のテーマをはっきりさせるために余計な要素を排除しただけなのかもしれませんが、組織に属することができない人間の悲哀を描いているという見方もできるでしょう。
(そんなことを言い出したらすべての芸術作品は対人関係を描いているという意味で組織がテーマだと言えちゃいますが)
もっとわかりやすい例では高村薫の作品があります。私は遅ればせながら最近「マークスの山」と「レディー・ジョーカー」を読んだのですが、私にとってはその二作品は組織と個人の関わりがテーマであると思えました。「マークスの山」では硬直した組織である警察や検察、理不尽な上層部からの圧力に苦しむ現場刑事が描かれます。しかし現場を振り回す上層部もまた組織の奴隷にすぎないのであり、それは権力の頂点にいっても変わらないことなのだと暗に主張しているようにも思えます。
後の作品である「レディー・ジョーカー」では描かれる組織が大企業にまで広がりのですが、そこで主に描かれる社長や取締役の面々を見るとその思いはさらに強くなります。
【以下の数行にはいわいるネタバレがあります】
《極め付けは物語の終盤で主要登場人物であるその社長がものの数行の描写であっさりと殺されてしまうことです。その後の会社への影響など後日談もないどころか言及されることもそのほとんどなくなります。この
小説は主要登場人物複数の人間の視点から描かれておりそのうちの一人であったのにも関わらずです。大企業のトップに登りつめながらも苦しみ続けるそれまでの描写とようやくその重荷を下ろせるかに見えたところでの非業の死には組織と人間の関わりについて考えざるを得ないものがあります》
ところでこの宇宙には現状維持というものはありません。一見現状維持に見えるものはその後に続く停滞そして下降の前触れです。
人は満足してしまったら上昇を目指さなくなります。それは長い目でみると滅亡へ続く道です。つまり人生に苦しみがあるのは苦しむべきことがあるから苦しむのではなく、我々を前に進ませるために、現状に満足させないためには我々を苦しませる必要があるという前提があるからなのかもしれません。そうしてみると悩み苦しむというのは神の仕掛けた罠であるかもしれません。実際に我々が悩み苦しんでいる大抵のことはどうでもいいと言えばどうでもいいことです。
原始の時代には生き残り子孫を遺すことのみが目的だったはずです。技術が進んで少しながらも生活に余裕ができ生き残って子孫を遺すことはいくらか容易にできるようになりました。目的は達成されることになったわけです。問題は何もないはずなのです。しかしそうなると今度は新しく別の悩みや苦労が生まれます。こんなのは好きでやっていることであり悩みたくて悩んでいる苦労したくて苦労しているとしか思えないことです。常に悩みや苦しみが必要とされているのでなければ説明が難しいことです。
冒頭で人間は組織を作ることで生き残りを図った生物の一つであると述べました。しかしだからと言って集団行動がもともと好きとか他者を愛して止まないというわけでは無さそうです。
どちらかというと我々が感じる愛情や友情など他者を好ましく思う気持ちは組織を維持するために発明されたものだと考えたほうが説明がつきやすいようです。
科学的な考え方とは仮説を立ててそれが合理的な説明にあうものであれば新しいさらに合理的な説明が出てくるまでは真理として採用される考え方のことです。
そうであれば我々が他者にたいして感じる好意というものは損得勘定から生まれた自分本位のものであるという考えは取りあえずは真理だと言ってもいいかも知れません。
本当は他人と関わりたくなどは無いのでしょう。それぞれの個体で充足したいのでしょう。
現代社会では人との関わりが希薄であると言われます。社会が豊かになってそうしても生きていけるようになったからでしょう。
もともと他者と関わりたいのであれば生活が出来る出来ないに関わらず濃密に関わりを持つはずです。
その必要が無くなった途端に他者との関わりを無くするということはもともとそうしたかったからだとしか考えられません。
歴史の違いからなのではないでしょうか。原始の単細胞生物などは単体で生きていたでしょう。それが段々と複雑な生物が生まれるようになって集団、組織が出来たわけですが生物が集団、組織を作ったからの時間と単体で生きてきた時間ではその長さが全く違うのでしょう。要するに慣れていないのです。蟻や蜂だって一見上手くやっているように見えますが内心ではイライラいているのかもしれません。
もしくは蟻や蜂のように問題なく集団行動がとれてしまうとそれ以上の進化が無くなってしまうので人間などには組織内で喧嘩をする要素が入れられたのかもしれません。生物も哺乳類までいくと集団内で良く喧嘩していますから。
何故我々は人間関係で苦労するのかというとそういう風に出来ているからということになります。
それを上手く乗り切る方法などはこっちが聞きたい位のものですが演技ということがコツなのかもしれません。
相手に合わせて様々なキャラクターを演じればいいのです。まあ言うのは簡単でもやるのは難しいですが。テレビタレントの振舞いは参考になるのではないでしょうか。皆大して面白くもないのにはしゃいでいるように見せかけています。それぞれのつまらない話もいかにも面白いような振りをします。それだけでなく会話を広げてそれを面白くする工夫もします。
子供の習い事として英語なども結構ですが演技の勉強も役にたつのかもしれません。大人でも今からでもやってみてもいいかも知れません。