以前から、子どもの食べ物に対する好き嫌いが激しいのは、子どもはまだ体ができあがっておらず、病原菌や毒性のあるものを食べてしまうと致命的になりやすいので、それを防ぐために味覚がそうなっているのだろう、と思っていました。
少年期から青年期にかけては、選りごのみが激しくなり、やれ、スパゲッティはあの会社のものでなければ、やら、コーヒーはどのメーカーのなんの豆でなければ、などということをいいだします。
年齢を経るにつれて、苦味をおいしく感じることができるようになったり、食べ物の種類の好みは変わってきますが、この食べ物ならこれ、という嗜好はずっと続くものだと思っていたのですが。
これは個人差もあるのでしょうが、中年からもう初老だよなぁ、という年齢になるにつれて、そのあたりの事はどうでもよくなってきました。スパゲッティなどは最近見るようになってきた、一キロ200円ぐらいのやつ(EUとの貿易協定のおかげでしょうか)でいいし、コーヒーにいたってはインスタントの一番やっすいやつ、飲んでます。(そのなかでも選り好み、というのはあるのですが、これは嗜好というよりも、慣れ、に近い気がします)これは、おいしくないものを我慢しているわけではなく、そういうものでも充分、おいしく感じるようになってきたのです。
それで、これはつまりは、人生に対するやる気の差なのではないのか、と思うわけです。
大体において、若い頃というのは、自分にも、他人にも原理主義的に厳くなりがちな人がいます。例えば、飲食店での少しの不手際も不快に感じて、抗議はしないまでも、そこには二度といかなくなる、とか。
それが、年をとると、おおむね、人に寛容になってくるものです。これは、必ずしもいいことではなく、自分にも甘くなるので、その言い訳として、他人にも甘くなる、ということもあるのですが。
そのことと、食べ物に対する好みが変わることは、つながりがある気がします。
簡単にいうと現役ではなくなった、ということかもしれません。良くいえば余裕ができた、ということですし、悪くいえばどうでもよくなった、ということでもあります。
この間、知り合いの性転換をした人にあったのですが、その時、自分も、もしも今、性別が変わっても別にどうでもいいな、と思ったのです。だからといって男と付き合うなどは考えられませんが、自分が女性になるぶんには、まぁ、今更どっちでもいいですね。そんなことは若いうちは考えられない、とても耐えられないようなことでしたが。
どうでもいいような話になってしまいましたが、思い込み、というのは変わることもあるようです。そうして、それは変わってみなければわからない。若い頃は母親がインスタント・コーヒーを飲んでいるのを馬鹿にしたりしていたのですから。母にしてからが、若い頃はいわいる、こだわり、がもっとあったかもしれないのですが。
人間などというものは、自分のことしか、自分で経験してみないとわからないものなのだろうか、と思います。(それはお前が愚かなだけで、他の人たちはそんなことはない、というご意見がもしあれば、それは喜ばしいくらいです)