パリオリンピックは酷いものであった。
フランスはその差別主義を露わにした運営で醜態を世界に晒し、今後数十年単位で国益を損ない、自由主義陣営全体にまで損害を与えた。
しかし、それを決定づけたのは、通常言われていることではない。
巷で訴えられているのは自国贔屓が過ぎる審判だろう。
しかし、それは確かに度が過ぎているものではあったが、それ自体はありがちなことてある。日本女子クライミングの森選手が、ボルダー競技において身長が低いがために初手のポイントがつかめずに0点に終わってしまった、という非道すぎる事例でさえ言い訳は可能だろう。(身長を考慮した設計はできない、身長も身体能力の一つと考えれば初手がつかめないのも彼女の実力だ、など。勿論、非道すぎることには変わらない。何よりそれが予選、決勝と二度にわたり繰返されたということが残酷だ。必死にジャンプしてポイントに取り付こうとして果たせない姿を見ても運営は何も感じず何も改善されることはなかった。更に言えば、これはあまりにも理想主義的な考えかもしれないが、運営が動かなかったのであれば、選手が行動すべきだった。予選が終わってから複数の有力選手がその差別的セッティングに対して運営に抗議することはできたであろう。これを内輪でなく、公に行っていれば何らかの改善処置はなされたのではないか)
決定的であったのは、陸上のトラック競技での選手紹介である。
トラック競技は大体、八人で争われる。そうして、レース前には場内アナウンスでそれぞれの選手が紹介される。
その選手紹介にかける時間が選手によって全然違っていたのだ。
八レーンの内、有力選手は二、三人だ。アナウンスとそれに連動したテレビカメラが選手を映し出すだす時間が、その二、三人とその他の選手で全く違うのだ。
私はそれほど熱心に陸上競技をみるわけではないのではっきりとしたことは言えないが、私の見た限りではオリンピックや世界陸上においてそんなことが行われたのは初めてだ。
少なくても競技前は参加選手は平等なのではないのか。オリンピックの精神を提唱したクーベルタンはフランス人ではなかったか。
水泳は全く観ていないので、水泳ではどうだったのかはわからない。女子マラソンで二、三人の選手だけが紹介されていたが、マラソン競技での選手紹介を見たのも初めてだ。
もしかしたらパリのせいではないのかもしれない。
運営母体が今後そうすると決めたのかもしれない。
もしもそうだとすると、それはフランスだけでなく、差別化が世界に蔓延している証坐になり、更に憂うべき事態なのだが。