松村雄策の凄いところは本質を掴む鋭さだと思っている。
それは、70年代において、いわいる尖ったロックファンに軽蔑または無視されていたポールマッカートニーやビートルズ、またはアントニオ猪木全盛期に馬鹿にされていたジャイアント馬場を好きであり続けた話で良くわかる。
勿論、ポールマッカートニーもビートルズもジャイアント馬場も一般的な人気は高いままであったろう。しかし、それらについて文章を書こう、物を申そう、と言った人たちの間ではそうであったと言われる。
その中で松村雄策のしたことは、盟友である渋谷陽一でさえ出来ない、特別なことだった。
その他に、文章力、詩的表現力、ロックシンガーとしての能力など、多くの才能を持っていた松村雄策だが、その一番の才能は執念深さであったと思う。
執念深いという表現が穏当でないならば、気持ちを持続させる力、と言ってもいい。少年時代に心を奪われたバンドを終生同じ熱量で愛しつづけられる人が他にどのくらいいるというのだろう。
少年時代に受けた屈辱を、まるでそれが昨日受けたもののように死ぬまで恨み続けることの出来る人は、そういるものではない。
松村雄策は、若き日にビートルズを否定した者たち、その否定をビートルズファンにまで拡大した者たちに対する怒りを持ち続けた人だった。
それは、例えビートルズがその後社会から認められたとしても、それを否定した精神は決して無くなっていないからだったと思う。
実は、ビートルズとそのファンを否定した者たちは正しかった。何故ならビートルズは彼らの常識や信条、さらには生活基盤さえおびやかし、覆す存在であったからだ。
そうして、当然のこととして、彼らはほぼ、その戦いに勝った。
ビートルズが社会に定着したということは、その根本精神は覆い隠され、毒の少ない部分が広まった結果である。
松村雄策ほどの人がそういうからくりに気付いていないわけはない。
松村雄策が終生怒りを持ち続けたのはそのからくりを知っていたからであろう。
だから彼の戦いはまだ終わっていない。
だから我々はその戦いを受け継がなくてはいけない。
これはとても困難な戦いだ。また、いつ、自分でも気付かないうちに向こう側に取り込まれるかもしれない戦いでもある。
それでも、それは遺された者の使命であるのだ。