オリンピックというのはその起源から政治的なものである。
スポーツに理想や理念などということを持ち込むのはスポーツに対する冒涜である。
《オリンピック憲章やクーベルタン男爵の理想は調べれはすぐにわかることだがその必要は感じない。それを調べても本当の気持ちはわからないからである》
スポーツというのはルールを守れば誰でも参加できる、勝ち負けもはっきりとつけられるものである。(だからそこに平等などの理想を投影しようとした気持ちはわかる)
だから一つの競技において世界大会を開こうとする気持ちは良くわかる。一地方や一つの国の中だけでなく、世界で一番なのは誰(どこ)なのだということを決めたいというのは当然出てくる欲求だろう。
オリンピックというものも折角ならば各種の世界大会をいっぺんにやってしまおうということならば、その方が盛り上がるし面白いだろうということならばいい。
しかし実際のオリンピックはそうではない。
サッカーの世界大会が水泳の世界大会が人種差別撤廃や平和を理念として掲げているだろうか。勿論結果としてそれに反する行動や発言をした者が制裁を受けることはある。また観ているものたちがスポーツを通じてそういう理念を感じとることはある。しかし主催者はそれを高らかに謳うことはない。必要がないからである。
スポーツの大会でオリンピックにのみそのような理念がくっついているのは、それがなければオリンピックは実現できなかったからであろう。
またはそもそも理念を広めるためにスポーツを利用しようとしたからであろう。
主要競技の世界大会をいっぺんに、ひとところでやるなどということはそれが存在していない時には無謀でありやる意味すら見つけにくいものであったはずである。
圧倒的な人気がある現在からは考えにくいことであるが、はたしてどのくらいの人気が出るかということも未知数であったろう。
それを無理やりにでも実現させるためにか、もしくは理念のためにスポーツを利用したのかは知らないが、本来ただのスポーツ大会であるべきものに余計な理念をくっつけてしまった。
後に政治利用されることはクーベルタン男爵の本意ではなかったろうが理念などという不純な意味を貼り付けてしまったことがその道を必然的に導いたのである。
今回の騒ぎが茶番なのは取って付けた理念を絶対のもののように扱っているからである。またそれを論じる者たちは格好をつけて言っているだけなのに正義の顔をしているからである。
本来判断基準は単純である。大会の運営に支障が出るならば馘であり問題なければその必要はない。
小山田氏を守ろうとしたのは共同体特有の仲間は守るという心情からだろう。
それ自体は大切なことではあるが場合によってはそれをしてはいけないことがある。
いけないというのは倫理を言っているのではなく、共同体は勿論、当人も傷を負ってしまう、損をしてしまう時である。いいかえれば守っても意味がない時である。
森氏のケースもそうであった。そのあたりの匙加減はなかなか難しいのだろう。
《とは言うもののスポーツが本当に純粋というわけではない。そもそも人間が社会的にやることで純粋なものなどというものはないのだろう。たとえ100m走であろうとそこにはイデオロギーがついているはずである。広く知られていることではマラソンの起源がある。戦勝を称えて始められたものであるのだ》