時事その他についての考察

東京オリンピック開催に対する様々な意見。我々は自らのそれを良く覚えておかなくてはいけない

初めに自分の見解を述べるならば開催には賛成だ。問題とするべきなのは運営その他の方法だと思う。ここに不備が出て大きな被害が出る可能性は勿論ある。しかし全ての行動にはリスクが伴う。少なくともコロナのリスクは予測できないものではない。

開催する利益と中止する損失とコロナのリスクを冷静に計算して判断すべきことであって、少ないリスクを過大に恐れるべきではないし、勿論警戒を怠っていいことでもない。

しかしだからといって政権の決定や対応を評価しているわけではない。

世論に対する説明や訴えが余りにも欠けている。

日本国内ではいつものように胡麻かせるかもしれないがこれは最大級の国際イベントである。海外でも政府などには根回しをしているのだろうが、海外世論はどうなっているのだろう。テレビはそれを報道しないがこれは政権に遠慮しているのか、発想がないのか。

まあいい。そうではなく、今回の主題はオリンピック開催に対する我々一人一人の意見、主張はどうなのか、開催後にそれをどのように反省するべきなのかということである。

他人のことはどうでもいい。自分がどう思い、何を話したのかをきちんと忘れずに覚えておかなければいけない。

そうして、オリンピックが終わった時、それがどの程度正しかったのか、間違っていたのかを検討しなければいけない。そういう事をしていかないといつまでも妥当な判断というものができないままになってしまうのだ。

言うまでもないことだとは思うが、テレビなどのマスコミにそれを期待することはできない。

その中で何らかの意見を述べた人たちがそれに責任を持つことはほとんどない。

自分の言ったことが明らかに間違っていたことがわかってもそれについて発言することはない。

彼らが『何々についていついつ自分がこう行ったことはこのように間違っていました』という意味の発言をしたことなどはほとんど聞いたことがない。

周りもそれを追求することはない。

まず、テレビ局とテレビ局を代表する立場であるアナウンサーはそもそも意見を言わない。(災害時などに政府の対応を批判することは意見などと言えるものではない。あれは何でもないものだが、一番適当な言葉を当てるならば、保身である)一般にはコメンテーターと言われている人たちに代わりに言わせているだけである。何か批判されるような事が起きれば彼らのせいにするためだろう。

そんな者たちを相手にしていても仕方がない。

自分が、自分の中で発言の責任を感じなければならないのだ。

別に何かをしたり、何かを言ったりする必要はない。

静かに自らを省みることである。そうして、その反省を次に生かすことである。

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