時事その他についての考察

SNSの投稿へのコメントに暗澹たる思いがする

SNS上である主張を持った投稿がある、それに対するコメントがある、その多くは投稿に賛同するもの。

それはいい。

反対意見などは余程のことでなければコメントなどせずに放っておけばいい。人はそれぞれの意見を持てばいい。少なくとも的外れの反対意見をわざわざコメントするよりは余程いい。

しかし、その賛同コメントのほとんどが全く内容のない、誰々先生(投稿主のこと)は流石です!も行ったものであったり、他の人たちが言っているのと同じことをわざわざ付け足して言ったりするのはどうなのだろう、とは思う。

私もたまにコメントを載せることがある。

基本的には投稿に賛同するもので、尚且つ他の人が言っていないことをコメントすることにしている。

たまにではあるが、投稿が間違っているのではないか、と疑問を呈することがある。当然、悪意からではなく、単に事実確認のためと、もしもこちらの認識が合っていれば反省をそくすためのものである(偉そうですまない)

コメントにはいわいる、いいね、ボタンで賛同を示すことができる。

上に述べた、単なる投稿主に対する礼賛や他と同じコメントには沢山のいいねボタンが押される。

しかし、上に書いた疑問を呈するコメントは、そのほとんどがほぼ無視される。(今はバッドボタンが表示されないのでわからないが、もしかしたら沢山のバッドボタンが押されているのかもしれない)

お前、それはただのやっかみや悔しいだけなんじゃないの?と思われるかもしれない。

そういう気持ちが全くないとはない。

しかしそれだけではない。

先に書いた投稿への疑問だけれど、場合によっては失礼になるかもしれない疑問を書くのだから、こちらもまぁまぁ慎重に、それなりに考えた上でコメントをのせている。

反応すらない、というのはどうかしている。

はっきり言って、皆、見たいものだけを見て、読みたいものだけを読んでいるのだろう。

その範疇にないものなどは、文字通り目に入らないのだろう。