警察の仕事は真犯人を捕まえることではない、事件を解決したと社会に認めさせ、人心を安堵させることだ。
裁判所の目的も同様。それによって社会秩序を守ることができる。
何をわけのわからないことを、と思われる方は、一時的にでもこれを受け入れて、そういう目で警察や裁判所を見るといい。
理想を求める刑事や裁判官と組織の軋轢はドラマや小説での定番の主題だ。
しかし、理想主義者の思惑がどこにあろうと、元々組織はそれを目的とはしていないのだから理想主義者が勝つことはない。そして、ドラマや小説でのこの主題が廃れることもない。
では、翻って政治はどうだろう。 政治の目的が国民生活の向上にないことは明らかなのではないだろうか。
では何がやりたいのか、というと、その目的の一つは国体の護持であることは間違いないことだろう。
かつて確か自由党時代の小沢一郎氏が、党のスローガンとして「国民の生活が第一」というフレーズを採用したことがあった。
当時、それを見て、民主主義なのだから当たり前のことだろう、と思ったものだが、同時に他党の議員がそれに否定的な見解を述べているのを聴いて呆れもした。
批判した議員は論外としても、小沢氏自身も、わざわざ国民主権の原則とも言えることをスローガンにしようとしたことが既に国会議員の間ではそれは常識ではないこと、そして小沢氏もその仲間なのだろうことを露呈してしまっている。
しかし、明治憲法下ではない現代においての「国体」とは一体何なのだろう。
明治憲法下、もっと言うと太平洋戦争敗戦時に唱えられた国体の護持とは、すなわち天皇制の維持、ということだったのだろう。
彼らは天皇制さえ守れれば日本が滅ぶことはないと思ったのだろう。
これは、今の天皇を象徴とした日本国憲法では曖昧になるところだが、これを現代に当てはめると、つまりは自民党と官僚制度を守る、といったところではないだろうか。
彼らとしては、(当然自分の利益が最も重要なのだろうが)自民党と官僚制度が守られれば、やはり日本は滅ばない、とでも思っているのだろう。
もしそうだとすると聞いている方は呆れるだろうが、それだけ選民意識が強いということなのではないだろうか。
まぁ、江戸幕府の目的が徳川体制の維持だったことと同じだと思えばわかりやすい。
だから、つまり、現在の日本の政治においては国民のことなんかはどうでもいいのだ。
勿論、国民無くして国家はないのだから国民にはいて貰わなくては困るのだが、それは徳川幕府が農民に対して思っていた(と我々が思っている)気持ちと同じ様なものなのだろう。
だから彼らが国民のための政策などはするわけがない。
それがされた時もあったかもしれないが、それは気まぐれもしくは偶然か、自分たちを守るために必要だったからに過ぎないだろう。
まさかそこまで酷くはないだろう、と思われるかもしれない。
しかし、彼らが現にやっていることの一つ一つを今一度考えて、その動機を今述べたことに当てはめて考え直せば物事が新しく見え始めるのではないだろうか。
念の為に言っておくが、彼らは自分たちは善をなしていると思っているはずだ。