初めに断っておくが、村上選手の達成したことを称賛する気持ちは大多数の人たちと同じだ。本当に、数字だけでなく、試合を決める一打が多かった印象もあるし、既に風格まであるのも素晴らしい。
そうではなくて、シーズン56本塁打を“日本選手最高”と表現することの異様さを言いたいのだ。
彼らの言い方でのこれまでの日本選手最高記録を持っていたのは当然王貞治氏ということになる。
そうして、王氏は台湾国籍であり、日本人ではない。
從って村上選手の記録は“日本人選手最高“ではない。(Twitterで東京新聞が日本人選手最高を更新、と書いてしまったのは御愛嬌と言ってもいいし、新聞社としては恥ずかしい、と言ってもいいだらう。個人的にはどうでもいい)
でも、マスコミとしては、どうしても、王氏超え、を強調したかったのだろう。また、バレンティンの60本を更新するのは難しいかもしれないところで、話にインパクトをつけたいという思いもあったのだらう。それで、王氏は日本人ではないが、生まれも育ちも日本なので、日本選手ではある、という私には意味がわからない表現をとったのだと思う。
これ自体は些細なことではある。しかしその底に重大なことを示していることでもあるのだ。
これは、物事を自分に都合のいいように表現することであるのだ。
マスコミや我々は政治家が責任逃れをする言い方を攻撃するでしょう。極く最近のことで言うと、記憶はあるけど記録がないとか。
先の戦争を反省する検証で、よく、撤退を転進と言い替えた、などと言って攻撃しているでしょう。
だから、やってることは同じなのだ。
村上選手の本塁打記録は、単に王氏やバース氏、(あとタフィ·ローズもそうだったか?)を超えてバレンティンの60本に次ぐ歴代二位の記録、でいいのだ。
くり返すが、これ自体は些細で罪のないことかもしれないが、こういうことをする精神、そしてそれを不思議とも思わない感覚は日本を没落に導く道なのである。