信念などというものは怠け者が持つものだ。
人間の考えていることなどはどこか間違っているに決まっている。それを少しでも正すためには考え続けなくてはならない。考え続ければ少しずつ考えは変わっていくのが自然だ。
変わらない信念を持っているということはその努力をしていないことを証明していることだ。
程度の違いはあるが、自分の考えというものは子供でも持っている。それは自分の子供の頃を思い出すことができれば理解できるだろう。
子供の考えは正しいだろうか。勿論、子供だからこそ持てる鋭い視点もあるだろうが、ほとんどの場合、子供の意見などというものは、親など、大人の意見を真似しているだけである。
では、大人になったら我々は独自の立派な意見を持つことができるのだろうか。
残念ながらそんなことはない。始めに言ったようにある程度まともな見解を持つためには我々は学ばなければならない。学び続けなければいけない。
学ぶというのは、基本的には先人に教えを請うということだ。
自分の考えを追求することも大事だが、一人の考えには限界があるのだから。
つまりは読書が極めて大事なのだ。
しかし、大方の人たちは社会人になったら読書などはしない。社会人になってからの勉強は、自分の仕事に関わることだけで手一杯になるだろう。
加えて家庭を持てば、そのために時間と労力を費やすことになる。
とても、一般的な知見を広めることに必要な読書ができるとは思えない。
つまりは、一般的な、立派な社会人には、社会に対する適切な判断力などは無いということになる。
何を無茶苦茶な、と言われるかもしれない。
しかし、残念ながら、マスコミに溢れる情報、SNSで幅をきかせている意見を見ると、この結論は正しいと言わざるを得ない。
(本当は順番が逆で、まともな考えを持っている人があまりにも少なかっので、その原因を考えた結果、この結論に達したわけなのだが)
(社会的は意見、考えが稚拙なのと、人間の立派さとは直接の関係はない、念のため。人として立派だけれども洞察力には欠ける人もいるし、その逆もまたある)