時事その他についての考察

ガンバッテクダサイ

東京オリンピック開催の是非をめぐる不毛な話がされているようだ。それでオリンピックをめぐることについて改めて考えた。

ガンバッテクダサイ

おそらく私自身はこの言葉を一度も言ったことがないと思う。

そもそも他人に頑張れという話の筋道がわからない。

実際は今ではガンバッテクダサイというのも応援していることを示す定型文に過ぎないのだろう。

その昔円谷幸吉に向けられたであろう頑張れとは意味合いが全く違うのであろう。

だから受けとる側も笑顔でがんばりまーすと言えるのだろう。

でもやはり多くの有望な選手を押し潰した圧は残ってはいる。

いつの間にか頑張れはガンバッテクダサイに変わったが本質は変わらない。いわいる上から目線である。

競技者というものは本質的に見世物であり観客は本当は彼らを一段下の種類の者として見ている。

それは頑張れという声かけにはっきりとあらわれているし表面上それが敬語になったからといって本質が変わるわけではない。

オリンピックが開かれると報道はメダルをとったとらなかったの一辺到だがメダルの数だけを気にするその姿勢に競技者の人格などは一切見ていないことが良くあらわれている。

競技というものは勿論勝負事ではあるが同時に競技者たちは自己の限界に挑戦するものたちでもある。

オリンピックとは相手との勝負とは別に自らの実力が出せるか今までの自分を越えられるかを世界一の大舞台で挑戦するものでもある。

勝敗だけでなく個々の選手の自分との戦いも注目され称えられて欲しい。

建前は世の常とはいえアスリートファーストという言葉を真顔でいっている人を見ると二度見しそうになってしまう。

人死が出るくらいの炎天下で競技させようとしているのに選手第一だという。

古代ローマの闘技者とほとんど変わっていない。

ところで何故我々はスポーツを観るのか。

それは井上尚哉が閃光のようなカウンターパンチで相手をマットに沈めるとき大谷翔平が時速150kmを優に越えるボールを完璧なスイングでスタンドに叩き込むとき久保建英がほとんど膝から下だけしか使っていないかのような振り抜きから相手ゴールの左隅にミドルシュートを決めるとき一瞬完璧なもの永遠なものに触れた気がするからに他ならない。

世の中に永遠なもの完璧なものは無い。

生命体は不完全なものの代表だ。

生命体は永遠なもの完璧なものに憧れ永遠を完璧を目指す。

目指しているから不完全さがはっきりするのだとも言える。

自立した人などということがあるが本来自立などは有り得ない。

自立とは何者とも交わらず当然子孫ものこさず過ごすということで皆がそうなったら人類は滅ぶ。

一般に自立していると言われるのは依存し依存されるいわば収支決算がマイナスになっていないことをいうのだろう。

その依存するなかにスポーツに永遠や完璧を視ることがある。

物語を読むことも音楽を聴くこともそうだ。

依存の程度が低くなるとガンバッテクダサイと言うようになる。メダルの獲得だけに執着するようになる。さらに堕ちると匿名でネットに中傷コメントを書き込むことになる。

ところで冒頭にオリンピック開催をめぐる不毛な話と書いた。

ろくに見もしないで不毛と決めつけるのも無礼であるが彼らには多くの前科があるので仕方がない。

原理的には対応策は単純である。(勿論実行するのは大変だが)

オリンピックを強行開催することでどのようなデメリット不利益不具合が生まれるのかを網羅してそれらの対応策を練る。対応できないものがあればそれは開催する利益に見合う不利益なのかを検討する。

あらゆる可能性を考えるのは困難だし状況は日々変わるので全てはその変化をも考え合わせたものでなければならないが何も一人でやれと言っているわけではない。人も時間も資金も充分かけてやられるべきことだった。

問題は意思決定に参画するものたちそれぞれに思惑があることなのだろう。

当たり前のことだが皆自分が一番得になる結果を求める。

なにがなんでも開催させたい人もいれば絶対に阻止したいと決意している人もいる。その中には政敵を貶めるためだけに反対する人もいる。条件つきでの開催を支持する人もいる。彼らもどういう条件が最も自らを利するかを常に計算している。

こういう動きは我々の見えないところでなされている。

別にマスコミ上でのことがある。こちらも銘々が自分を売るためにする発言である。

直接の利害がないので冷静な提言がされそうなものだが一般受けを狙った無責任なものであるのはいつものことであろう。

安定の不毛というべきかもしれない。

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