時事その他についての考察

不機嫌ハラスメント

不機嫌ハラスメントに限ったことではない。

各種ハラスメントと言われることは、それまで見過ごされていたことに対して、はっきりとした名前をつけることで、それはいけないことなのだ、と多くの人たちに認識させることに大きな意味がある。

いきなり“フキハラ”などと言われたら、何を言っているのだ、そのうち息をすることもできなくなるのではないか、などと反発する人が多いだろう。

いや、これは他人のことではなく、私が初めに感じことだ。

しかし、頭を冷やしてよく考えてみれば、各種ハラスメントと言われていることは、成熟したまともな大人であればやってはいけないことであることは確かなのだ(勿論何でもかんでもハラスメントにしていいわけではない。それはだから、ハラスメントを訴える側にも成熟さ、正常な判断が求められることだ)

以前、向田邦子さんの妹さんである、和子さんの書いた文章を読んだことがある。

それは姉である邦子さんとの思い出を綴ったものであった。

まだ、和子さんが小学高学年か、中学生だった頃の話だ。 おそらく高校生くらいであっただろう邦子さんの友達と遠出をする機会があったそうだ(確か海に行ったのだと思う)ところが当日、和子さんは少し具合が悪くて邦子さんの友達に対して無愛想な態度をとってしまっていたそうなのだ。それを見ていた邦子さんが頃合いを見て和子さんを脇に呼び、(和子さんが少し体の調子が悪いのは承知で)皆が楽しもうとしている時にそういう態度をとってはいけない、と注意したそうだ。

それを聴いて和子さんも反省をして、その日はそれ以後無理をして笑顔をつくるようにしたそうだ。

高校生にしてそういう認識ができている邦子さん。さらに幼少でありながら言われたことを理解して実行でいた和子さん、共に素晴らしい。

つまり、不機嫌ハラスメントとはそういうことだ。

勿論、皆が向田姉妹のように偉大ではないので(私などは特にそうだ)ハラスメントをしてしまうこともあるだろう。 

しかし、それはいけないことなのだと周りから注意され、また本人もそれを自覚するために、ハラスメントと認定され、明確な名前が付けられることには大きな意味があると思う。

勿論、いい事ばかりではない。問題はだからその運良くだろう。

基本的に各種ハラスメントは、悪質なものは除き、何らかの罰則を加えたり、過大に糾弾されるべきものではない。

あくまでもその本質は、迷惑行為を可視化することにある。

そうして、本人に反省を促し、改善の機会を与えることにその意義がある。

それを理解しないと、過剰にそれを運用して、社会に要らぬ混乱を起こし、折角我々が掴んだ認識の進歩を悪い方向に向かわせることになろう。