受験制度を批判する人たちは、その勉強の無意味さを訴えます。「受験で勉強したもののうち、実際に社会で役立つものはどれくらいあるのだ」というわけです。
また、その過酷さを責めます。確かに年端もいかないものたちの日常が勉学一辺倒の生活を送るのは哀れを誘います。
遅まきながら、高村薫さんの「レディー・ジョーカー」を読んでいるのですが、この中に大企業の社長さんが出てきます。中心的な登場人物で、その仕事内容まで描写されます。それは大変です。朝から多くの報告書を読み、指示が必要なものには指示を出し、必要があれば会社の上層部の人たちと個別に打合せをして、会議、視察などなど。よく分刻みのスケジュールなどと言われますが、小説では出勤から退勤まで、落ち着ける時間などは1日に10分も無い、と表現されていました。
ただ忙しいだけではなく、密度も濃いのでしょう。
報告書などもゆっくり読んでなどはいないはずです。ほとんど斜め読みをして、なおかつ、内容は正確に把握しなければならないのでしょう。当然、数字も出てきます。抽象的な数字から、それがあらわす動向を素早く読みとらなければなりせん。常人に出来ることではありません。
そういう能力はどうすれば身に付けられるのか?勿論、個人の資質が大きいのでしょうが、訓練によるものも大きいはずです。
過酷な受験勉強などは、正にその訓練にあたります。受験に必要なテクニックや努力などは高度な仕事にも不可欠なものでしょう。受験地獄などと言われると受験の時だけが特別なように聞こえます。私などはそういう世界とは無縁なので詳しくはわかりませんが、エリートといわれる人たちの日常は受験時代とそんなに変わらないのかもしれません。だとすると、その人たちにとって、受験制度の功罪などは話をする価値すらないことでしょう。せいぜいが、自分たちの基準に至らない人たちには確かに不要なものかもしれない、と感じるくらいでしょう。
新聞社やテレビ局の人たちも選ばれた人たちです。彼らはその辺りのことをよく知っているはずです。にも関わらず知らない顔をして、受験地獄などと書き立てるのです。
《小説の中では上に述べたようなことはいわれません。しかし、高村薫さんにはこんなことはわかっているはずです。この位の、かみ砕けばいくらでも広がる描写はまだまだありそうです。しかし、それらを簡潔に積み上げることで濃密かつ重厚な厚み、奥行きというものが小説に加わるのでしょう》